samedi 16 janvier 2016

新しい場所へ



新年が明け、学生生活に一区切りがついたところで新しい場所を求める気持ちが強くなりました

これから新しい場所で改めて綴っていきたいと思います

新ブログ名は、「二つの文化の間(あわい)から」 としました

今後ともよろしくお願いいたします






mercredi 13 janvier 2016

科学と哲学について語り合う



 このところ気持ちよく晴れた日はなかったが、今日は少しだけ青空が見えた

午後からマスターの時にお世話になった研究所まで出掛ける

トゥール大学のマエル・ルモワン氏が講演のためパリに出て来られたのでお話をするためである

待ち合わせの場所を間違え、30分遅れで会うことができた

スートゥナンスの話から哲学と科学の問題へ

両方の領域が抱えている問題について実のある意見交換ができた

この場所でも書いてきたことについて、かなりの部分で重なる考えをお持ちのことが分かった

それは、大学という中で生きなければならない哲学者が忘れがちなことである

あるいは、分かってはいるけれども避けることができないことになるのか

中に、生前著作を出さなかったが哲学していた人として何人か名前が出ていた

本来の哲学はそういうものなのかもしれないということなのか

簡単に纏まる訳などないのに、生きるために発表していることが多そうな現状の批判だったのか

一人はメーヌ・ド・ビラン(1766-1824)で、もう一人はジュール・ラニョー(1851-1894)

ウィキによれば、お二人ともフランス反省哲学という流れに属するようだが、余り聞き慣れない



わたしのような立場の人間にはよく分かるお話であった






dimanche 10 janvier 2016

パリから見えるこの世界 (36) 記憶の中の探索、あるいは 「考える」 という精神運動

Jean-Antoine Houdon (1741-1828)



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』の第36回を紹介いたします

 
医学のあゆみ (2015.1.10) 252 (2): 209-213, 2015
 
 
 ご一読、ご批判をいただければ幸いです
 
 
 
 
 

samedi 9 janvier 2016

これからどのような智慧を求めていくのか



相変わらず、曇天が続いている

その持続力には見習うべきものがある

昨日の夕方、外に出て今年初めてプレスに入る

1月7日号のル・ポワンに興味深い特集が出ていた

自分に直接関係あるテーマだと感じたからである


sagesse を辞書で見ると、智慧とか英知とか思慮分別などと訳されている

どのように訳すにしても、その元には人類が目覚めた時に求めた知というイメージがある

古代ギリシャで哲学が生まれた時に求めたものという歴史が、この言葉に埋め込まれている

しかし、時を経るに従い、そのことは忘れられていく

特に、近代に入り科学が発展すると、智慧の探究との乖離が著しくなる

 ただ、最近、古代ギリシャが求めた智慧、より正確には智慧に至る姿勢に注目が集まっている

このような背景と表紙の三人が来週出す本を絡めた特集のようである

Christophe André (1956- )
Matthieu Ricard (1946- )
Alexandre Jollien (1975- )

Trois amis en quête de sagesse
(L'Iconoclaste / Allary éditions, 13 janvier 2016)



もう10年ほど前になる

わたしの場合には、世界を観てというよりは、自らの内的世界を観てこのことを感じたのである

科学の中に身を置いていたため、智慧との乖離が耐えがたいほど大きくなったのであろう

そこから始ったフランス生活は、科学と智慧の乖離を埋めるためのものであったとも言える

少なくとも、そこに向けた道を探るものであった


ロジェ・ポル・ドロワ(Roger-Pol Droit)さんの記事には、わたしが感じたそのことが書かれてあった

 理性は個人的生活に影響を与えることなく使われる

科学をやることによりその人間が道徳的に変わることは想定されていない

西洋は智慧をすっかり忘れてグローバリゼーションに走っている

技術者の時代には、智慧者は博物館行きに見えるのである


この事態がどうして21世紀に入り、変わって来たのか

ドロワさんは次のような理由を挙げている

一つは、西洋人によるアジアの思想の発見が進んでいること

二つには、特にピエール・アドーさんの仕事により、哲学の実存における役割の再発見がある

その他、生物が一体になっているという認識の出現、我々の活動と地球との相互依存関係など

このような中、忘れられていた意味、幸福、道の探究が智慧に向けての関心を呼び起こしている

ここで重要になるのは、充ちた内的生活が個人のレベルだけで得られるとは限らないことである

そこに社会、経済的な要素が絡んでくる

それらも含めた新しい智慧のあり方をどう求めていくのか

 それがこれからの課題になるだろう





vendredi 8 janvier 2016

ピエール・ブーレーズさん、亡くなる



1月5日、ピエール・ブーレーズさんがバーデン・バーデンで亡くなっていたことを知る

享年90

古くから世界を舞台に活躍していたため、フランスを留守にすることが多かったようである

終の棲家はドイツになった

ビデオを二つだけ





ヴァイオリニストのルノー・カピュソンさんがブーレーズの音楽と人間について語っている





クリーヴランド管弦楽団によるトリビュート





jeudi 7 janvier 2016

プロジェというものの性質



本日は朝から雨

午後少し晴れ間が見えたが、夕方から曇天

風が強い一日だった

年が明けてから1週間というもの、気持ちの良い日は一日としてない

ただ昨年とは異なり、個人的なプロジェの方は徐々にではあるが、動き出している

プロジェには目標がある

余り向いてはいないのだが、どのような展開になるのか様子を見ることにしたい


こういうことを始めた今言えることは、次のことだろうか、

どんなに小さなプロジェに見えようが、一度取り掛かるとそれ相当のエネルギーを要するということ




mercredi 6 janvier 2016

今年初めての雪?



今年初めての雪である

と言いたいところだが、これは6年前の画像になる

このところ曇ってはいるが、極端に寒いという感じはしない

 実は、今新しい年の初めであるという感覚も薄れている

これまでになく落ち着いてしまった変化のない日常の中にいる

その状態に居られること自体が、昨年から見れば考えられないことである

変に真面目な気分が出ているようで、傍目で見ていても面白味がなくなっているようだ






mardi 5 janvier 2016

ミシェル・ガラブリュさん亡くなる



相変わらず曇天が続いている

昨年、奥様を亡くして孤独の中にいる92歳の俳優の話を取り上げた


その話を読んだ時、精神的にかなり厳しい状態にあることを想像していた

生きる意味を見出し得ず、前に進むことが難しいように見えたからだ

そして昨日の朝、ご本人の理想の死に方だったという睡眠中に息を引き取った

享年93







lundi 4 janvier 2016

囚われの底に哲学的生活が



新年が動き出した

今朝は青空が覗いていた

気持ちよく出掛ける


最初のカフェではこれからをぼんやりと考える

これは縛りの中にあった昨年、暇を見て考えていたものを掘り起こす作業であった

一応、リストとして拾い出すことができた


午後からは新しいプロジェのため、ビブリオテークへ

最初は眠かったが、昨年の様な縛りを感じていないためか、最後はすっきりと終えることができた

帰りのメトロでのこと

先日気付いた精神の囚われの二重構造の本体が見えたように感じた

その底にある囚われの本体は、哲学的生活をするということではないのか

それがベースにあり、その上で日常生活をするという構造を採っているのではないか

そう気付くと、精神にこれまでにない安定感を感じる

 これまでも、この構造の上で生活してきたのかもしれない

しかし、その構造を言葉で描写できないと、その構造は存在しないのだ

このことは、哲学的生活と言われるものが普通の生活とは異なっていることを意味している

普通の生活はしているのだが、その底に哲学的生活があるという構造になっている

 普通の生活がなくなっても、哲学的生活が残っていることになる





dimanche 3 janvier 2016

戦争と人種差別について語るウィリアム・スタイロンさんの声を聴く



新年のお休み

時間を取って、戦争と人種差別についての1997年の議論を聴く

出席者は3人のアメリカ人作家

『ソフィーの選択』(1979)のウィリアム・スタイロン(1925-2006)

スローターハウス5』(1969)のカート・ヴォネガット(1922-2007)

キャッチ-22』(1961)のジョセフ・ヘラー(1923-1999)

ビデオはスタイロンさんの講演が中心になっている(重複あり)


太平洋の向こうからこの世界がどう見えるのか

スタイロンさんの目に写る日本(人)とはどういうものなのか

過去の忘却あるいは無知、歴史に対する不感症、反省力の弱さに関連する言葉も出ていた

人間としての基本力とでも言うべきものの欠如にも繋がるものだろう

その前に、事実をしっかり見て、如何に深く捉えるのかという問題が横たわっているように見える

それは、どのような言葉で捉えるのかという問題に帰するのではないだろうか

総じて彼らの捉えている世界がわれわれのものよりも広く見えるのは、その言葉によるのだろうか

使う言葉によって見える世界が違ってくるからだ

あるいは、単なるわたしの錯覚だろうか
 
会場とのやり取りと併せて実に興味深い時間になった










samedi 2 janvier 2016

新しい囚われの中を



新年は連日の曇天である

予報を見てみると、雨も交じりながらしばらく続くようだ


今日はネットで日本の懐かしい映像を見た

次回の帰国時に訪れてみたいものである


これは新年の効果だろうか

去年まで抱えていた囚われが消えかかっているのを感じている

昨年暮れのスートゥナンスの後、解放感は全くなく、以前と何も変わりないのを不思議に思っていた

それは、これから新しい囚われの中を歩むことを感じていたからではないのか

直近のそれは目に見えているようだが、、、


しかし、少し引いてみると、違う景色が見えてくる

それは、すべての歩みの底を流れている変わらない何かが囚われとしてあるということだろうか

だとすれば、これからも底にある囚われの中を行くことになる

構造としては、その上にその時々のプロジェとも言うべき小さな囚われがあることになる

上で新しい囚われと言ったのは、その上部にあるものを指していたことになる

この構造が目に入ると、なぜ解放などされないのかが分かってくる


今日、明日とゆっくりして、週が明けると動き出すことになる






vendredi 1 janvier 2016

2016年、明ける



2016年は明けたが、どんよりと曇った空である

なので、何日か前の空を掲げた


昨年、学生生活に一区切りできた

終りがあるとは思っていなかった大学生活だったが、この世に終わりがないものはないことを知る

永遠はなさそうである

あるとしたら、精神の中だけだろうか

それにしても、精神を宿しているこの肉体が滅びた時には消え去るのだろう

勿論、そうは考えない世界もあるが、、、


今年はこれからを考える年になりそうである

そこに創造性が求められるだろう

これは昨年の経験が教えてくれたものである

今年がどのような年になるのかも全く想像できない

すべての 「出来事」を受け入れ、その意味を考えるしか道はなさそうである

これも去年の教訓である

そして、そこでも創造性が問われることになる





jeudi 31 décembre 2015

妙に落ち着いている大晦日



いろいろな出来事があった2015年が暮れようとしている

わずか数時間で新年を迎えるが、数時間で何かが変わるとは思えない

今年は久しぶりにパリで新年を迎えることになった

正月のブリュッセルでの出来事を思い出したわけではない

落ち着いて新たな仕事を始めたいという気分なのだろう

外に出向きたいというよりは、気持ちが内に向かうようになっている

これまでにも触れたとは思うが、この状態になるのに8年を要したことになる


今年最後のカフェの後、スーパーに入ってみた

これまでは入口で荷物検査をやっていたが、今日はそれがなくなっていた

 帰りのメトロでは、どの入り口を試してもチケットが入って行かない

暫くして、窓口の女性が明日の正午まで無料です、と教えてくれる


来年はどんな年になるのか

今年を振り返ってみても、全く想像できないことが分かる

今年の教訓から言えることは、すべてを受け入れて進むしかない、ということだろうか





mercredi 30 décembre 2015

今年最後のビブリオテークにて



今日は、今年最後のビブリオテークとなった

最初の数年は、このような閉じた場所で過ごす気分には全くならなかった

最初は観光客として、それから世界内存在として外を飛び歩きたい気分だったのだろう

それからかなり時間が経ってから、この広々として空間に身を置くことが稀ではなくなった

当時は、変われば変わるものだと思ったものである

ある意味、心地よさもあったのだろう

この空間の広さだけ自分の思考の空間も広がっているような錯覚を齎してくれたからだろうか

実にいろいろな思索が巡る場所となった

そして、苦しみの場所でもあった

これからも折に触れて、ここでの時間を欲することがあるのではないだろうか

そんな予感がしている





mardi 29 décembre 2015

次回のSHEとPAWLのご案内



長い間中断されていました会を、以下の要領で開催することに致しました

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


第1回サイファイ・カフェSHE札幌

2016年3月2日(水) 、18:30~20:30
科学にとっての哲学、哲学にとっての科学
札幌カフェ
案内ポスター


 第3回カフェフィロPAWL 

2016年3月8日(火) 、18:20~20:00
エピクテトスの人生と哲学
恵比寿カルフール
案内ポスター

第9回サイファイ・カフェSHE
2016年3月10日(木)、11日(金) 、18:20~20:00
科学と宗教:オーギュスト・コントの場合
 恵比寿カルフール
案内ポスター


皆様のご理解とご支援をよろしくお願いいたします




lundi 28 décembre 2015

人生のプログラムの設計者



今日は人生を振り返ることになった

以前、人生の時間についてのエッセイを書いたことがある

今の状況では大学、大学院まで行けば、教育に20年ほど費やす

それから60歳定年とすれば、35年ほど働くことになる

平均寿命が80歳だとすれば、それから20年ほどの時間が残っている

 その時間をどう過ごすのかが、問題になり始めている

これからさらに寿命が延びるとすれば、その時間の過ごし方については今以上に問題になるだろう


わたしは想定する必要がないだろうが、仮に寿命が120歳まで延びたとする

そして、これも仮に70歳まで仕事をすることになったとする

その場合、半世紀の時間が残されることになる

その時間をどう過ごすのかという問題である

仕事人間にとっては、この時間が視野に入っていないことが多い

 世界的に見ても、人生の時間割に関する哲学は弱いようである


今日なぜこの問題が浮かんできたのか

それは、期せずして第二の教育期間になったほぼ10年に区切りを付ける時が来ているからだろう 

妙に真面目になっているようである

大袈裟に言えば、教育を受けた者の責任のようなものをどこかに感じ始めているからではないか

もし教育の区切りを付けずにいたとしたならば、このような問いが浮かんできたかどうか分からない

今よりはずっと自由な感覚で居られた可能性もある

今年に入ってから、何かに縛られるような感覚が付いて回っているのである


平均寿命は分かっても、自分の寿命は分からない

しかし、ここでは仮に120歳までの時間が与えられているとする

その残りの時間をどう使うのかについて考えてみたい

いろいろなオプションが浮かんでくる


一つは、最初のサイクルと同じように、教育の後の時間を社会的な活動に使ってみること

今のところ、最初のサイクルと同じような活動の幅は社会に用意されていない

人それぞれが活動の様態を考える必要があるだろう

 活動の期間も人それぞれだろうが、これを続けるとすれば半世紀にもなる

学びに興味のある人は、適当なところで第三の教育に向かっても良いだろう

 つまり、教育と社会的活動、あるいは静的生活と動的生活を周期的に繰り返すのである

周期の長さにより、多様なライフスタイルが生まれるだろう


第二には、仕事や社会活動の後、静的な生活に入ることが考えられる

この時間の使い方も人それぞれになるだろう

 ただ、半世紀を退屈せずに過ごすには、それ相当の工夫が求められるだろう

第三、第四の可能性もあり得るだろう

しかし、社会に定型を提供するだけの哲学がない現状では、次のようなことしか言えないだろう

人生は、仕事が終わってからも続く

死ぬまで続く

死ぬまでの人生のプログラムをどうするのか

それは、結局のところ、それぞれの創造性に委ねられているのではないか

つまり、それぞれが自らの哲学を生み出す必要があるということである






dimanche 27 décembre 2015

7年前からの省察



このところ、振り返るという作業が自然に行われている

今、7年前のブログを読み返していた

そこから二つほど


ブログを書くという作業では、対象を目の前に出し、それを観察し、それについて考える

その点では、わたしの考える哲学的な要素がある

もう10年ほど続けてきたことになる

その間に感じていることは、生きることを後押ししてくれていたのではないかということだ

これは先日触れたこととも関係がある

つまり、ここでの営みが生きることに直接関わっていたということである

哲学的営みが、より善く生きる上で必須であることを示す証左になるだろう


 もう一つ

丁度マスターの2年目に入った今頃、ある壁が消えて行ったと記されている

それは、こちらに来てから付き纏っていたクールの中でフランス語を話すことの恥ずかしさである

 しかし、ある日突然、その抵抗感が消えていたとある

今となっては思い出さないが、おそらくこのような大小の壁が何度も崩れていたのではないだろうか

つい最近の経験で言えば、スートゥナンスがそれだろう

この場でも紹介したが、一年前にスートゥナンスに参加している

しかし、その時はその場に自分が立っている姿を想像さえできなかった

そして一年後、抵抗感なく当事者になっていた

大きな壁が崩れていたのだろう

少し離れて見れば、それは信じられないことである


いずれにしても、このような状態になるのには8年の時が必要だったということになる 

その時間が長かったのか短かったのかは分からない

今はただ、そうであったとしか言いようがない

こちらに来た時点から今を眺めれば、想像もできなかった世界が広がっているのだろう

今の時点から眺めれば、それは現実にしか過ぎないのだが、、、





samedi 26 décembre 2015

悲劇から奇跡へ



今年も残すところ僅かになった

今年は特に、知らない間に時が過ぎているという感覚が強かった

未だに年の瀬を迎えていることが信じられない

スートゥナンスが3週間前だったこともである


思い返せば、今年は悲劇的な出来事から始まった

それにも拘わらずなかなかやる気にならず、それは最後まで続いた

大きな試練ではあったが、今では奇跡としか思えないような経過で終えることができた

真面目に見直せば、それがどうして可能だったのか分からないの一語である


この一年の歩みは、いろいろなものを齎してくれた

その一つは先日も触れたが、自分のやり方の癖をやっと理解できたということである

そういうことになっている、あるいはそれ以外にはないのだと理解したということである

その効果だと思うが、以来それほど苦しまずに「こと」に当たれるようになってきたようである

理性によって感情をコントロールできるということなのだろうか

これは、これからにとって大きな発見であった






vendredi 25 décembre 2015

外国語の恐ろしい力



こちらに来て長い間、最初のブログ「フランスに揺られながら」は記憶の彼方であった

それが蘇って来たのはここ1-2年のことである

こちらでの動きが緩やかになり、振り返る余裕が出て来たということだろう

最初のブログをやっていた当時から不思議に思っていたことを改めて書き留めておきたい

それは、フランス語を日本語に移し替えている時に体に活が入るような感じを覚えたことである

 訳しながら心の中で繰り返したり、実際に声に出してみる

その時、その人間の声が、精がこちらに乗り移るように感じたのである

フランス語から姿を変えた日本語がこのわたしを目覚めさせ、立たせ、前に進めさせたとも言える


何故そうなるのか

それは分からない

しかし、その効果は慣性をもってこちらに来てからも現れていたのではないだろうか

もしフランス語をやっていなければ、これまでの時間はどんなものになっていたのか

想像するだに恐ろしいことである


フランス語の効果はそれだけではなかった

実は、こちらに来る何年か前から、英語の世界に飽きを感じ始めていた

英語の本を読むことに意欲が湧かなくなっていたのである

こちらに来ておそらく4-5年はフランス語の中に浸っていた

そこから徐々に出てくる過程で、英語の世界がこれまでとは違って見えてきたのである

以前に感じていた英語に対する倦怠感は消え失せ、新たな興味が湧きつつある

これも外国語の恐ろしい力と言えそうである

フランスに来たのは、実は英語に対する愛を再び呼び覚ますためだったのではないか

そんな思いも湧いてくる





jeudi 24 décembre 2015

リンカーン・センターからの贈り物





ニューヨークのリンカーン・センターから上質の贈り物が届いた