mercredi 20 avril 2011

本日もヴァカンス、そしてサルトルとスタンダールの関係など



一体どうしたことだろう。
もうその訳を探るのを止めて、その状態に身を委ねることにした。
やる気が起こらないのでそれ以外にやりようがない。

数日前、検索の過程でブログに辿り着いた方からメールをいただいた。こちらも知りたいことがあったので、情報をお願いしたところ丁寧な返事が届いた。そこで関連の本を検索したところ、少なくとも1冊は手元にあることがわかった。すっかり忘れていたのだ。いつもとは違うリブレリーに入り、" Des liens " (つながり) というタイトルがこの場のテーマとも重なることもあり、手に入れておいたものだ。こういう時いつも感じるのは、こちらに来てから自然にでき上がった原則が如何に多くのものを齎してくれるかということだ。それは、その瞬間に何かを感じた本は手に入れるということ。実物がなければ、そういう本に出会っていたことも忘れ、それから先へは広がらないからである。


ところで、その本を探し始めたがどこにあるのかわからない。結局、目の前の机の上に重ねてあるいくつかの山の一番下に見つかった。そこに至るまで本棚の中やその辺りに散らばっている本をひっくり返す過程で、いくつか記憶を刺激する本が現れた。一つは、モーリス・ブランショの 「わたしの死の瞬間」。

L'Instant de ma mort (Maurice Blanchot)

この本は2003年3月、すなわちフランス語を始めて2年目に読んだもの。その不思議の世界に困惑し、フランスの世界に引き込まれる誘因の一つになった20ページ足らずの小説である。今回読み直してみて、どうしてそう感じたのかよくわからなかった。それと内容をよく理解していなかっただろうこともわかった(その時よりは理解力は上がっているだろう)。当時、理系の研究に全神経を傾けていた状態で、何十年振りかの小説を読み、しかもまだよくわからなかったフランス語だったため驚いたのではないか、と今では想像している。

BRUNO CREMER - BALZAC - 「土曜オアシス」 (2005-02-18)


それから、こちらは6年ほど前、BnF で開かれたサルトル展で手に入れた一冊。これが現れた時、以前とは違う感情とともに眺める。それはこの場に移るきっかけにもなったのがスタンダールの日記 (Journal) で、そのスタンダールとサルトルを並べて論じた本 「サルトル、スタンダール、そして道徳: あるいはスタンダールの復讐」 だったからである。こういう結びつきが生れてくるのも嬉しいものである。

Sartre, Stendhal et la morale : Ou la revanche de Stendhal (Paul Desalmand)

サルトルはスピノザとスタンダールになりたかった。哲学と文学を分けたくなかったようだ。フローベールについては3000ページに及ぶ言葉を残しているサルトルだが、スタンダールについての言葉は少ない。スタンダールの 「日記」 について書く計画はあったようだが日の目を見ることはなかったという不思議な関係。著者のポール・デザルマンさんは両者の共通点と相違点を挙げながら、二人の人生、思想、道徳などについて論じている。それを読みながら、ここのテーマと関連することが溢れていることに改めて驚く。

スタンダールの思想の根源を一言で表現するとすれば、" inventer " (考え、創り出す) という動詞で、それは形容詞の " imprévu" (予測もできない) と結び付いているとデザルマンさんは言う。この人生を同じことの繰り返しから救うのは、新しいものを創り出すという行為。同じことをくどくど繰り返す会話ではなく、そこから離れた時にはそれまでと違った人間になったと感じるような創造的な会話。決まった予定に沿って動く団体旅行や人生の歩みではなく、冒険の要素を孕んだ道行。

サルトルにしても、人間とは常に前に進む存在であり、可能性の塊である。今あるものではないのがその存在であり、今あるものはその存在ではない。存在とは、何ものかにより決められているものではなく、世界に投げ出されることによりでき上がる関係性の中で規定されるものである。したがって、存在のエッセンスはエッセンスのないこととも言える。自らの価値や原則を創造していかなければならない義務を負っているのが人間という存在になる。この二人に共通するのは、自由な選択の下、永遠に自らを創造していくことこそわれわれのエッセンスであるという考え方になる。

他の多くの共通点に対して大きな相違点が3つある。それはスタンダールの夢に終わった「生存中の栄光」、「有り余る金」、「自らの能力に見合った女性」 をサルトルは実現したことだとデザルマンさんは言っている。

サルトル展 (2005-06-20)


そして、「ニースのニーチェ」 が現れた。これも散策途中の新しいリブレリーで、今すぐ読むことはないだろうがそういう時が来るだろうと思い、仕入れておいたもの。2年ほど前のことになる。こちらについては、後ほど書くことがあるような予感がしている。同時に、しばらくはヴァカンスではないのかという予感もある。

Nietzsche à Nice (Patrick Mauriès)


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