samedi 4 juin 2011

林房雄・三島由紀夫 『対話・日本人論』 を読む


対話・日本人論林房雄三島由紀夫
(昭和41年、番町書房、380円)


 僕は、『英霊の声』 についての文芸時評を、ほとんど全部読んでみたが、みんなあれはイデオロギー小説だと思っているようですが、しかし 『英霊の声』 には、イデオロギーはない。批評家諸君はイデオロギーという言葉をどう解釈しているのか。イデオロギーは普通、社会思想と訳されているが、つまり集団の思想で、個人の自由な思想とは対立する。 『英霊の声』 は思想小説であっても、イデオロギー小説ではない。三島由紀夫という個人の自由な発想の上に成り立っている。イデオロギーは、一つの集団、または党派の立場から絶対化されたものだから、個人の思想をのみこみ、場合によって圧殺するものです。そういう意味のイデオロギーは、『英霊の声』 のなかにはない。三島君の心の中に、『憂国』 や 『十日の菊』 のころから萌芽し成長しつづけた自由な思想がある。その自由な思想が現在の日本という大衆社会化され、平均化され、アメリカナイズされ、占領民主主義化された現状に対して激怒している。神格天皇と人間天皇の問題で戦後の天皇制にまで怒りのしぶきがかかっている。

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 ヤスパースは大衆というのは、民族とは違うと言っている。
「民族はさまざまな秩序に成員化され、生活方式、思惟様式、伝承において自覚的である。民族は実体的で質的なものであり、共通した雰囲気をもち、この民族の出身の個人は、彼を支える民族の力によっても一つの個性をもっている。・・・・・これに反して、大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承をももたず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任をもたず、最低の意識水準に生きている」

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 大衆社会化時代の大衆を相手には、芸術も文学も生れない。・・・・・人間の精神は自由ですから、僕たちは自由に桃山時代や室町時代や鎌倉時代に旅行すればいいのです。あなたの好きな 『源氏物語』 の時代にも 『万葉』 の時代にも、または、ギリシャの盛時にもルネッサンスの時代にも旅行すればよろしい。そこには大衆社会化時代と無関係な芸術と文学が実在している。歴史は少なくとも千年を単位で見るべきだ。文明の歴史は五千年だと普通言われているでしょう。

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三島 なんか、そんなことを考えだしたのは、『葉隠』 のなかに、一芸一能だけに秀でたのは駄目だと書いてある。これは、とても素晴らしい思想だと思った。

   芸能に上手といはるる人は、馬鹿風の者なり。これは、ただ一遍に貧着するゆえなり。
   愚痴ゆえ、余念なくて上手になるなり。何の益にも立たぬものなり。

 というね。僕は芸術上の質というもののなかにある衰弱というものを、こんなにはっきり書いている文章はないと思う。・・・・・量ということばは悪いのですが、質ということばにある文化主義的な衰弱というものがいやになってきた。いまやはり日本を弱めているのは、文化主義的衰弱ですよ。・・・・・ことばというものは、質とか量とかいう問題を超越した、もっともっと大きなものですね、言霊的なひろがりのあるものだと考えるようになった。




 論語を読んでおもしろかったのは、孔子が、自分のやることには創造はない、創作はない、すべて堯舜の道を、周公の道を祖述して復活するだけだと言っている。あれは強い精神だと思ったね。独創性なんかにこだわっていないから、孔子は古代に友達があって孤独じゃなかった。創造というものは、それ以外にないね。

三島 独創性を信じたやつで、一流の文学者は一人もいませんよ。ヴァレリーも全然独創性なんか否定しているし。

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 別の話だが、あなたはいつかフランス文学のことを話して、パリに行ったらうっかりジャン・コクトオをほめるな、サルトルはまあよろしいがと言いましたね。

三島 パリの文壇人たちが言うには、コクトオは利口すぎて真実 (ヴェリテ) がなかった、というのです。

 ヴェリテというのは、英語ではシンセリティーのことでしょうね。フランス人がシンセリティーを作家評価の底においているという話は印象的だった。

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三島 そういう点では、林さんはいろんなイデオロギーにぶつかられた。僕はそれほどぶつかっていませんがね、どっちも同じことなんです。ぶつかっても、ぶつからなくても。それでね、つまり僕は、人間が自然に好きなように生きるというのは、論理的一貫性をつくるいちばんのもとになると思うのです。それは 『葉隠』 の、どうせ短い人生だから、好きなことをして暮せという意味はそれだと思うのですよ。自然に好きなことだけやっておれば、絶対人間は論理一貫性を保てるように、神様は作っていると思いますよ。ところがときどき、好きでないことをやるから間違う。

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三島 非難なんて覚悟してますけれどもね。好きなことでの受難ならちっともかまわない。しかし、もし自分で、これは違うのではないかなとか、これは、僕の考えではないなと思ってやったことで受難したら、人生つまらないでしょう。

 自分の好きなことをやるというあなたの意味はやりたいことをやるという石原慎太郎君の思想とはちがいますね。君のようなストイックな作家は他にはないですから (笑)。

三島 だからエピキュリアンですよ。エピキュリアンは、いちばんストイックですからね。僕はその意味では、エピキュリアンだと思います。で、エピキュリアンであればですね・・・・・・。

 したいことをしないことによって、ほんとうの楽しみ、または幸福を享受するというのがエピキュリアンの思想ですね。後世は両派を対立させて考えているが、あなたはストイシズムの正統としてのエピキュリアンで・・・・・。

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 歴史もそうですってね。近代史学だとか社会学的方法だなどというけれど、歴史の真実はそんなものではつかめない。論理も方法も達しえないところに愛情が作用する。愛情以外に歴史を解釈する方法はない。歴史的人物に惚れることによってその人物を理解できる。

三島 批評もそうですね。批評も絶対そうです。

 好きか嫌いかのどっちかだ。作品批評の客観的規準なんかありませんよ。あれば便利ですがね。あると思っている批評家もいますがね。

三島 でも根本動機は愛情でなければ、真実は・・・・・。

 真実とは人間精神の創造物でしょう。事実は客観的なものです。それに生命を与えるものは、愛情という主観的で神秘的なものだとすれば、不可知論ですね。








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