dimanche 31 juillet 2011

映画 「かすかな光へ」、あるいは教育とは


北垣憲仁さん(都留文科大学准教授)と森康行監督


「93歳の教育研究者、大田堯の挑戦」 をテーマにしたドキュメンタリー映画、「かすかな光へ」 を観る。大田堯さんは東京大学で教育学を教えた後、都留文科大学の学長を務め、現在は講演や執筆、小さなグループでの対話などに精力的に取り組んでいる。この映画では、大きく言えば人を教育するとはどういうことなのか、その理解に大切になる基本的人権をどう捉えるべきなのか、などの問題についてわかりやすい言葉で語る大田さんの姿が紹介されている。

基本的人権を何ものにも先んじて生まれながらにして有する権利とするならば、その定義にある生命と密接に関連するものではないかと大田さんは考える。つまり、生命の特徴を考えることにより、人権の姿がより鮮明に表れてくるのではないかと考えを進める。そして、こう結論する。生命とは一つひとつが違うこと、自らが変わる能力を持っていること、そして他と関わることなくしてその維持が不可能であること。人権を尊重するとは、これらの事実を確認し、その背後にある過程をサポートしようとすることではないかと考える。

それから、言葉や記号を介する接触ではなく、物理的なものとの直接の接触が大切であるとの指摘もされていた。そこでは人間の感性がものを言う。その感性を磨くためにはそれぞれの専門を出て、生身の全人間に戻らなければならないだろう。言葉としては分かっているようにも思う。しかし、本当に理解するとは、自らが変わることでなければならないはずだ。大田さんは言う。大きなことをやろうとするのではなく、自分のできる身近なことから始めるしかない。

この映画に興味を持ったのは、大田さんの教育に対する姿勢とその活動にひとつの道を見たように感じたためではないだろうか。すべては教育に帰結すると考えるようになっている身にとっては、ごく自然な反応になる。人を作る、ある型に嵌めるという視点ではなく、人が自らを観察し、自らが変わるために必要になるものを探る営み。それはそれぞれの生命を十全に燃やすことに繋がるはずのものでもある。

映画終了後、監督の森康行さんと映画にも出ていた都留文科大学の北垣憲仁さんによるフィールドミュージアムについての対談があった。






夜、テレビをつけると放送大学に学ぶ学生さんが何人か出ていた。これまでに感じたことのないほど親近感を覚える。人間は学び続け、変わり続けなければならないのだろう。その生を全うするためには。

samedi 30 juillet 2011

辻邦生を読む



今回の日本滞在では辻邦生の文章に触れ、昔の印象と比べてみたいと思っていた。本棚を見ると 「西行花伝」 などの歴史物しかなかったので、現代を語っている作品を探すことにした。普通の本屋さんで辻の本を見つけるのは難しいことがわかる。仕方なく古本屋に向かう。そこでもなかなか見つからない。駄目かと思ったその時、小さな折りたたみ式の椅子が置かれているところがあり、それを避けてみると彼の作品群が現れた。その中から 「時の終わりへの旅」 を手に入れる。


昨日の朝は雨模様。近くのカフェまで出掛け、彼の日記を読み始める。お昼にいったん戻り、午後再び出る。久し振りにシガーをやりたくなり、適当な店を探すがなかなか見つからない。これも諦めかけたその時に、道に出た席のあるコーヒーショップが目に入る。それにしても、東京の街のこんなところでわざわざシガーをやろうなどというのは、別世界から来た人間だけだろう。異星人の気分でいた。2時間ほど、道行く車を眺めながら表題のエッセイを読み終える。道行く人も眺めたが、なぜか楽しそうには見えない。以前にも感じたことだが、まだ街を勝ち取っておらず、人間が街から疎外されているように見えるのだ。


ところで、以前に指摘された辻の文体との類似だが、自分ではなかなかわからない。ただ、記憶に残っている表現の回りくどさやそこからくる眠気を誘う退屈さは今回は感じなかった。それどころか、ものの感じ方や見方に通じるものがあるのではないかとさえ思えた。例えば、彼はこんなふうに詩が生れる人生をよきものと考えていることが見えてくる。

「もしよしあしを言う価値基準があると、それだけでこの絶対的な跪拝の原点をこわすことになり、<詩>は生れてこない。あらゆる人がそのままで<深い人生>を現わしているとする絶対肯定の、シェイクスピア的静けさ、générosité こそが、つきない<詩>をつくる。この自己放棄と評価的規準の放棄---絶対肯定・足もとへの感動的跪拝が<詩の源泉>となる。・・・

・・・<すべての人生の姿>を<よきこと>として---<乞食>や<浮浪者>や<ヒッピー>や<悪党>の深い礼賛者として---決して新聞的教育者的道徳教にしたがうのではなく、<すべてをよし>とする<無>となることによって---<この世>を両手で<なんていい奴なんだ、お前は>と叫びながら douceur を感じつつ抱きしめるのである。
 ぼくらを縛りつけ<詩>から遠ざけたのは、この評価的な対象化する態度でなかったろうか。すべてがよく、すべてが美しく重く面白いのだとする態度を、どこか放埓な無責任なものと考える考え方が、ぼくらから<詩>を奪っていたのではないだろうか。
 その理由はおそらく教育的な要素や立身出世型、追いつき追いこせ型の生き方・考え方が社会に充満し、ぼくらもそれに染まっていて、<遊び>を遠ざけていたことに関係があるであろう」

今が目的で常に完了し、完全なエネルゲイアと今は目的に至る過程であり、常に未完成なキーネーシスの対比を身に沁みて理解し、エネルゲイア的生を生きたいと昨年考えた。このエネルゲイア的生と<詩>が生れる生は地下で繋がっているのではないだろうか。

永遠を視野にエネルゲイアを取り戻す (II) (2010-01-02)






vendredi 29 juillet 2011

街に出て、大杉栄に出会う



今年の夏は去年より涼しいのがよい。
しかし、湿気は人間の集中力を削ぐ。
春の花粉症で3ヵ月、夏の湿気で2ヵ月、活動が著しく低下する。
日本にいた時の半分はお休みしていたことに気付く。

昨日はひと仕事が終わり、詩の世界に入りたい気分とともに街に出る。
本屋さんに入るも、手に入れたいと思うものが見つからず。
哲学のセクションに向かうが、こちらも同じだ。
結局、通りがかりに手に取った大杉栄1885-1923) の言葉が自然に入ってきた。
「僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。・・・
僕が一番好きなのは、人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにまた動機にも自由あれ」
その横に 「日本脱出記」 なるものもあり、一緒に手に入れる。
大杉が仏文出身だとは知らなかった。
フランスでの観察がかなりの部分を占めている。
下戸だった大杉はフランスの牢獄で酒 (ワイン) を覚えたようだ。

サンジカリズム(労働組合主義)
ル・リベルテール(自由人)
カルト・ディダンティテ(身分証明書)
パスポオル(旅券)
セエサ(そうです)
スウヴニル(思い出)
トレ・コンフォルタブル(極上)
などの表記を見ると、なぜか懐かしい気分が押し寄せる。
当時の彼らの言葉や行為には、どこか物悲しくなるほどの熱が溢れている。



jeudi 28 juillet 2011

セミナーの後、日本が抱える問題の根を語る



昨日は東京医科歯科大学でセミナーがあった。最後の最後で話題のひとつをカットするなど、いつものように準備不足は否定し難い。始まる前、コンソーシウムの主催者である鍔田氏は、科学と哲学をテーマにするのは初めてなので参加者は少ないかもしれないと懸念されていたが、予想を超える参加があったようだ。お話によると、6割が学生さん、3割が教員で、残りは外からの方ではないかとのこと。全体の雰囲気は2月の関西に比べて静かな印象があった。終わった後、会場のセットアップをしていただいた若手研究者に印象を聞いてみたところ、研究生活に追われ研究を取り巻く問題にまで考えが及んでいないので話に付いて行くのが大変だったという。話の内容を基礎的、一般的なところに留めるようにしたつもりだが、内容をさらに噛み砕く必要があるのかもしれない。

会の後、鍔田氏と科学のあり方について幅広く語り合う。日本の科学に確実に欠けているのは、ここで何度も触れている科学を支えている背景や精神面の理解ではないか、という点では一致した。それは歴史であり、文学であり、哲学に因らなければならない領域で、突き詰めると内的瞑想生活を持っているかどうかの問題になる。話題にした科学を他の人間の営みに置き換えても日本の現状にそのまま当て嵌まるような気がしている。この状況を変えるためには、若い時からの (専門に入る前の) 教育に掛ってくることでも意見の一致をみた。まずそのことを理解する人が増え、その方向に舵を切る必要があるのだが、未だその気配は見られない。長い長い道のりが待っている。






lundi 25 juillet 2011

昔の研究仲間との語らい


本郷利憲、中田裕康、嶋津浩、岩崎辰夫、渡邊正孝の各先生


今夜はパリに向かう前に勤めていた研究所の皆さまとの会食があった。元所長、先輩、そして同期の方など、要するにお世話になりっぱなしだった方々との語らいになる。いつものように豊饒なる時間をたっぷりと味わい愉しむ。

今回は欧米と日本の科学や科学者のベースの違いなどが話題になった。わたしは意識的に西欧の立場を強調し、日本に欠けていると思われることをいくつか指摘した。大きなところでは、ここで何度か触れている科学精神や哲学的姿勢の乏しさを取り上げた。認識としては同意も得られたが、日本の状況を根本的に変えることに時間を要するとすれば、その是正のためには日本に合うようなやり方を工夫する必要があるのではないかとの声も聞こえた。

今やこの会は年に一度の恒例行事になった感がある。来年はどのようなことになっているのか予想もできないが、日本に帰る機会があればまたお会いして御意見を伺いたいものである。



vendredi 22 juillet 2011

講演会のお知らせ: 哲学から科学を考える



昨日、北海道大学でのセミナーを終えた。話している最中に改良の余地のあることがわかり、いつものように貴重な経験になった。聞いている方が無表情なのでどのようなことを感じながら聞いているのかなかなか判断できなかった。しかし、終わった後に呼び止められ、面白かったと話しかけてくれる人がいるとほっとする。詰まらなかったとわざわざ言ってくる人はいないだろうが、、、。

ところで、来週の27日(水)にも東京医科歯科大学でお話する予定であることについて先日触れた。その後、外から参加できるのかという問い合わせをいただき、哲学と科学について興味をお持ちの方がいることを知る。早速、主催者に確認したところ、以下の情報とともにどなたでも参加できるオープンな会であるとの返事をいただいた。興味ある皆様のご批判をいただければ幸いです。

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学際生命科学東京コンソーシアム大学院特別講義 (特別講演会)
タイトル: 科学哲学から生命科学を考える
日時: 2011年7月27日(水)17時から18時まで
会場: 東京医科歯科大学 M&D タワー21階 大学院講義室 I
本学はお茶の水駅前に所在します。一番背が高い建物が M&D タワーです。



mercredi 20 juillet 2011

真実に迫る意志と複眼



妙齢の美女か、魔法使いの老婆か。
一つの絵でも見方によって全く違う姿が顔を出す。
両方が見えることもあれば、一方しか見えないこともある。
人間の認識はこれほど危いものである。

情報 information の語源はラテン語の動詞 informare に由来する。
心に形を与える、教える、導く、という意味になる。
つまり、情報とはそもそもある意図を以って発せられるものであることがわかる。
情報操作とは、本来の意味から言えば redundant になることを前ブログで触れた。

「情報操作」 という言葉に込められた欺瞞 (2011-02-05)


ところで、フランスでは日本の政治状況を知るために、ネット (ニュース、個人ブログなど) に頼っている。拾い読みにしか過ぎないが、マスメディアの内容は大同小異。楽しく、平穏に暮らしましょうというスタンスのものが多く、根本的な批判は少ない。一見厳しい批判をしているように見える時は、みんなが同じようにやっている時だ。一方、個人ブログは、分析型のものから客観性を装っているが意図は明らかなもの、ぼやき、アジテーションまで多様である。個人のブログなので偏っているのは当たり前だろう。それだけに、振り返ってみると読みたいものを読んでいることが多い。聞きたくない意見には耳を貸さないようになる。判断の元になる情報を集めているつもりだが、実は相当偏っている可能性がある。

こんなことを考えたのは、24時間流れるテレビを見ながら、あることに気付いたからだ。それは、フランスで描いていたイメージがあっさりと掻き消されていることだった。日本では日常の景色が入ってくるので政治の世界が遠景に下がっていく。そんなに厳しく考えなくてもよいのでは、という気分にもなる。忙しく働いている人がテレビだけに頼っていると、流れに任せることになりかねない。断片しか伝えられないので、日常的にサブリミナル刺激を受けているようにも見える。断片をつなぎ合わせるだけの時間がないと、そのイメージだけで判断することになる。

状況はネットの世界も同様で、そこからまともな情報を得ていたかと問い返せば、上で触れたように答えは甚だあやしい。今の立場から見ると、それが偏っていなかったとは言えないのである。どちらがまともな姿を伝えているのかがわからなくなり、さらに真実などそもそも捉えられるのかという疑問にまで至るのだ。

それでは何を頼りにすればよいのだろうか。一つは真実に辿り着くのは不可能に近いことを理解すること、それを理解した上で真実に迫ろうとする意志を確認することではないだろうか。この確認は、事が起こると一色に染まり、熱狂する傾向の強い日本という空間では特に大切になるだろう。一つのものを異なる角度から眺め、いろいろな姿を探そうとする複眼が不可欠になるだろう。日本を外から見ている人たちの観察には参考になることが多い。外国語を学ばなければならない理由がここにもあるように見える。




時差ぼけの夜。
皆寝静まった中、静かにテレビを眺める。
そこにはヨーロッパの懐かしい景色が流れていた。
オックスフォード、アムステルダム、クラクフなど。
落ち着いた街並みや人々の暮らしを綺麗な映像とともに味わう。
この時間帯にテレビを見ると真実に迫ることができるかもしれない。



mardi 19 juillet 2011

バカンス初日は世界一、そして 「グラン・ブルー」 の世界を覗く



昨日からバカンスに入っている。
初日が海の日で、世界一のニュース。
いつもながらの風景が流れている。
日本男児よりも動きが俊敏で、疲れを知らず、決めるところを逃さない。
このような行事が行われていることは知らなかった。


昨夜は途中から 「グラン・ブルー」 の中に初めて入る。
現実世界を超えた何かに包まれるというその中に。
物ではなく感覚の世界、精神の世界に生きることができるということだろうか。
こういう物語だとは知らなかった。
途中日本人が出てくるが、団体で競技に参加し、訳のわからない人たちとして描かれている。
リュック・ベッソン監督の日本人観なのか、それとも西側から見た日本人像なのか。
数十年前に観たアメリカ映画に出てくる日本人と何ら変わっていないのに驚く。

Le Grand Blue (réalisé par Luc Besson)


今回の滞在では科学と哲学について医学・生命科学研究者に話すことになっている。

7月21日(木) 北海道大学医学部
7月27日(水) 東京医科歯科大学

現場の研究者がこのような話を聞く機会は、日本でも少ないと想像される。
ものの起源に帰り、少し広い枠組みで考えることの意味は大きいだろう。
このような接触はわたしにとっても得るところが大で、積極的に引き受けることにしている。
研究者にとっても思索の機会になることを願っている。



dimanche 17 juillet 2011

18世紀フランスと現代、そして社会の夢


クラクフを走る市電


ポーランドの砂糖を入れ、紅茶を飲む。
Krakowski Kredens のチョコを齧りながらの週末の夜。
18世紀から19世紀にかけてのフランスの歴史的背景について読む。

理性と科学が人類の飛躍を呼ぶとする啓蒙思想。
一方には、不合理なもの、曖昧なもの、人間の感情や古代に対する憧憬や熱狂。
両者の激しい対立の中、情から理への移行が急激に進行したこの時代。
しかし、今に至るまで理と情の間を揺れ動き、匙加減を決めかねている。
匙の使い方を未だ知らない。
この対立は永遠に続くのだろうか。

人間の活動はすべて社会の影響を受けている。
われわれがいくら社会的要素を無視しようが、所詮はその虜にしか過ぎない。
科学も芸術もその例外ではない。
ある社会がどのような思想で動いているのか。
その社会がどのような夢を抱いているのか。
これが正の方向であれ負の方向であれ、人間の営みを決めている。
そういう夢が現代にあるだろうか。
現代を生きるわれわれの中にあるだろうか。



samedi 16 juillet 2011

日本の現状について語り合う



昨日の夜は学会でパリを訪れている鹿児島大学のS氏と食事を共にした。アメリカ時代からの友人になるので数十年に及ぶお付き合いになる。話題は日本の現状に関するものがほとんどを占めた。政府から始まり、マスコミも科学行政を仕切っているところも、大学も学生も何かが欠けているという。芯になるものが見えず、すべてが薄っぺらいという。何かが起こると、少数意見を排除し一つの方向に流れる、あるいは流れるように持って行こうとする動きがあり、しかもそのことに気付いていないことが多いのではないかという。お話を伺いながらそこに通底していると感じたのは、ここで言うところの考えていないということ。ものの見方、考え方としての哲学の欠如とそのために起こる行動の規範の不在になる。

そこから抜け出すには小手先のことでは最早どうしようもないところまで来ているのではないだろうか。教育を問題にせざるを得ない時期に入っているように見える。数代先を見据えたまともな議論が出てきても不思議ではないと思うのだが、そのような声は上がっていない。すべての学科を支える哲学教育も議論の対象になってしかるべきだろう。ただ、S氏は日本人は哲学という言葉に抵抗を示すのではないかとの印象を持っておられた。どの言葉を用いるかは別にして、フィロソフィアの基本に還って考える人間を産み出す教育を措いて、日本の再生はないという思いが益々強くなっていた。その実現可能性について、S氏には疑問符を付けられたが、、。

先日読んだレジス・ドゥブレさんDu bon usage des catastrophes にあった言葉を思い出す。日本という国は地理的にいつも台風、地震などの天災に晒されていて、そこに住む人間は子供の頃からこの世の儚さ、無常感が身に沁みている。つまり、アポカリプスに対する智慧が身に付いているという。その無常観はどんなことをしてもしようがないとして諦める心にも繋がり、ひょっとすると天災だけではなく人間が行っていることについても同じように対処しているのではないかという疑念が生れていた。

日本を離れて4年。偶に覗くネットのニュースだけでは日本の状況の細かな感触は掴みきれていないことを感じる。2-3年目あたりから日本を抽象化した話が多くなってきたが、それは具体的な事象が捨象されていた証拠なのかもしれない。近過ぎても見えないが、遠過ぎても見逃すところがあるということだろう。遠近法を駆使しなければならないのかもしれない。

ところで、科学の後に哲学をやっている者が書いているブログを学生さんに紹介しているとの話が出てきて驚いた。若い方のためになるようなことがあるのかどうかはわからないが、日本からはなかなか辿り着かないブログであることは確かなようだ。

日本を離れ、普段考えていることを 「パリの洞窟で瞑想する修験者」 と心おきなく話していただいたとすれば幸いである。


クラーク精神から近代科学の受容と日本のこれからを考える (2011-06-29)


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一夜明けて、昨日次の記事がそのまま当て嵌まる話が出ていたことを思い出す。それは、事に当たる時にはまず理解しなければならないのだが、なぜか判断の方が先に来て、それをもとに動こうとするところがあるということ。道を誤りやすいやり方になる。

曖昧さに耐えること、そして理解することと判断すること
(2011-05-31)



vendredi 15 juillet 2011

ブードゥーを巡って



カルティエ財団のビデオを観る。


ブードゥーには宗教と普遍的文化としての哲学という二つの要素がある。
われわれがどこから来てどこにいるのか、何者なのかという根源的な問に向き合う。
哲学の背景には自然への敬意がある。
自然の原理を尊敬することしか教えない。

人生には多くの危険なことが存在する。
自然現象だけではなく、病気や死などの身体的なことが。
そこから身を守るためにいろいろな像を作り、門や室内に置く。
病気を治療する人間が現れる。
その人間には単に細かいことを知る以上の精神的なものが求められる。
自然を見据えた世界観が求められる。
それが死を迎えるまでに起こるすべての困難に対する解答を見い出すことに繋がる。

歴史を辿れば、奴隷制に対する抵抗の意味があった。
今でもブードゥーと言えば、どこか怪しげな意味合いが込められている。
これまでも差別や迫害に遭っている。
アフリカからアメリカに送られる不安の中で心の支えになったのがブードゥーだった。


ビデオを観る前と少しだけ見方が変わってきたようだ。



jeudi 14 juillet 2011

ブードゥーの世界に触れる


Exposition Vaudou
5 avril-25 septembre 2011
La Fondation Cartier



ブードゥー教に関する展覧会が開かれていることを知る。

カルティエ財団のサイトでその世界を覗く。





mercredi 13 juillet 2011

もう秋か、革命記念日前日



今朝は曇り。
もう秋の到来かと思うほどの寒さである。

午後から外出。
まず大学に行く前に、カフェで暫く休む。

論文を集めるため大学へ。
もう新学期の登録が始まっている。
なぜか懐かしくなる。
夏休みのためか、広い閲覧室にわずか数人で快適である。
しかし、いつもより2時間ほど早く閉まった。

まだ数時間ビブリオテークが開いているのでそちらに移動し、最後まで。
こういう短時間の滞在も集中できてよい。

アパルトマンに戻ると、遠くからもう花火?の音が聞こえる。
明日、革命記念日。



mardi 12 juillet 2011

新たな事に向けて



事が迫ると別のことをやりたくなる習性がある。
もう慣れっこになり、驚かない。
その習性を修正しようという意欲もないようだ。

朝のうちは太陽が見えたが、午前中は雨になった。
静かに沈むには丁度良いので、雨音と時折聞こえる遠雷に耳を澄ます。
ル・モンドのニーチェ特集や事に関する本などにも目をやりながら。

午後から雨が上がったのでビブリオテークへ。
事に関して、いくつかあるポイントをどう繋げ、どう膨らませるのかに当たる。
ファイルからは予期せぬものも出てきて、過去の営みに感じ入る。
こういう小さなことが、少しだけだが気分を高めてくれる。


帰りにビブリオテークで手に入れた Du bon usage des catastrophes を読む。
レジス・ドゥブレさん (Régis Debray, 1940- ) のタイムリーな新刊本だ。
石原都知事の天罰 « punition divine » 発言まで取り上げている。

何もない時には科学の装いの下にすべてを忘れている。
背後にある不確実で危いものを見ようとしない。
アポカリプスは日常の仮面をあっさりと剥いでしまう。
そして、そこから立ち直る時には科学ではなく精神的なものが必要になるのだ。
日本人は子供の頃からこの世の儚さ、無常感が身に沁みている。
アポカリプスに対する智慧をすでに持っている。
そこに自然条件とともに仏教の影響をドゥブレさんは見ている。



lundi 11 juillet 2011

ポール・ジャクレー、あるいは西と東の交わるところ


La Danse d'Okesa, Sado, Japon
(1952)


Bnf の会員には年に4回ほどパンフレットが送られてくる。
最近のものにこの方の展覧会の案内が出ていた。

ポール・ジャクレー Paul Jacoulet (1902–1960)
落款は、「若礼」

作品を見た第一印象。
色が抜けるように明るい。
そして形に古さを感じない。
一体どんな人間が創ったのか。

彼はパリ生まれのフランス人浮世絵師。
子供の頃に日本に来て、一生日本で暮らした。
日、英、仏の言葉を自由に操るルネサンスマン。
能、歌舞伎、義太夫、バイオリンに三味線、そして蝶の蒐集家。
作品の色の鮮やかさ、多彩さは蝶を見ていた影響では、との指摘もある。

英語は家が近かった野口米次郎のアメリカ人妻レオニー・ギルモアさんに習った。
イサム・ノグチさんの母親に当たる。
不思議な繋がりだ。

日本国内を隈なく旅し、あらゆる階層の人間を描いた。
特にアイヌなどの民族のマイノリティに興味を抱いていた。
民間で伝承されている風俗、習慣などを探し、残しておこうとした。
ミクロネシアやインドネシアなど、南洋にも旅し作品を残している。
そして、韓国、満州、モンゴルへも。

第二次世界大戦中も日本に留まる。
軽井沢に疎開し、野菜や鶏などを市に出して生活していたという。

パンフレットによると、彼の作品は東洋と西洋の宇宙の完璧な統合であり、
浮世絵の作法を踏襲しながらも、この分野に新風を吹き込んだものである。

糖尿病のため、58歳の若さで亡くなっている。




Les Graines de camélia Oshima, Izu
(1957)


2003年に横浜美術館で彼の展覧会が開かれている。
虹色の夢をつむいだフランス人浮世絵師

わたしは今回初めて知ったが、日本での認知度もあまり高そうに見えない。
もっと知られてもよい芸術家ではないだろうか。

彼の家族から贈与された作品のすべてが9月初めまで展示されている。
いずれこの目で観てみたいものである。
彼の作品はこちらでも鑑賞できる。



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mardi 12 juillet 2011

ついでがあったので、展覧会を覗いてみた。
すでにネットで作品を観ていたので驚きはない。
また、圧倒的な印象を残すという作品群でもない。
やはり色は明るく透き通っていて、わかりやすい形をとっている。
題材とは別に、全体にカラッとした印象を与える。

同時に日本の浮世絵も数点展示されていた。
そのすべての作品は全体の印象が暗く、敢えて言えば湿気を感じる。
色も一筋縄では表現できない複雑さがあり、技術が細部にまで行き届いている。
西と東として比較しながら観ていると、興味深いものがあった。


dimanche 10 juillet 2011

寂れたブラスリーでヘッセと繋がる



昨日、今日と午後あるいは夕方から散策に出て、寂れたブラスリーで読んでいた。酔っ払いが管を巻いていたり、外国語訛りのフランス語が飛び交っていたりするが、これが予想以上によく、集中できるのだ。数日前から読み始めた本が結構読み応えがあり、興味深い結び付きに気付かせてくれる。意外だったのは、ヘルマン・ヘッセHermann Hesse, 1877-1962) の文学などが出てきて、青春時代を思い出させる清々しい意欲を掻き立てくれたことである。

今朝、今読んでいる本の書評があることがわかり、今日はそれを読んでみた。文系では書評も業績になるようで、この書評は原稿用紙で40ページもある。普通は途中で眠くなるのだが、今日は3時間で読み終えた。本の著者も書評の主もニューヨークの会に参加されていたので、お話を聞くような感じで読むことができるからだろう。

この本に出てきたヘッセの小説は 「ガラス玉演戯」 (Das Glasperlenspiel)。ヘッセ最後の小説でノーベル賞受賞の直接の対象になったと言われる作品だが、あまり有名ではないような印象がある。もちろん読んだことはないが、説明によるとそのテーマが私の抱えている問題とぴったり重なるのだ。それはブログでも何度か取り上げたことのある、瞑想のある生活と活動的な生活とのバランスを如何に取るのかという問題、科学と芸術、あるいは科学と宗教との和解、さらには西洋の理性と東洋の神秘主義との融合を如何にするのかという大きな問題になる。知をより大きな枠組みの中に入れ直して考えることを通して、個人だけではなく社会をも覚醒させようというヘッセ哲学の野心が表れていると書かれている。

これは思わぬ出遭いであった。早速、英訳 (The Glass Bead Game, or Magister Ludi) を注文。ヘッセに関してはもう一冊所縁の小説があるのだが、こちらは少し読んでから触れることにしたい。



samedi 9 juillet 2011

トランペットに思わぬ対比を見る



昨日は定期検診に午後から出掛ける。予定の時間から1時間半遅れての診察になった。全く驚かず、イライラもしなくなっている。気が長くなったというよりも、その時間を使えばよいだけの話だと割り切れるようになっただけなのだろう。こういう境地になったのもフランスに住んだお陰なのだろうか。最近読み始めた本に喜んで向かう。こういう場所は集中力が否が応でも高まるからだ。

帰りのメトロでも想定外のことが待っていた。駅を出て暫くしてからアナウンスがあり、止まったかと思うと今度は後ろ向きに動き出した。フランスのことなので、後ろの運転席で運転しているのではないかと心配していた。出た駅まで戻るとまたアナウンスがあるが何を言っているのかわからない。周りの人に聞いてもわからないと言う。ホームの向かいの電車に乗り込んだり戻ったりの繰り返しをやらされた後、元の電車に戻ると動き出した。

帰ってから届いたばかりの本をバルコンで読み始める。これもニューヨークの会で発表された方のものなので、非常によくわかる。と言うよりは、その話について行きましょうという意欲が湧いてきて途切れないと言った方が正確かもしれない。

暗くなってきたので、昨日のブログ記事にあったマイルスの窓を開け、彼の音楽を芋づる式に聞いていた。その中に、フランス人制作になるドキュメンタリーが現れ、マイルスの話に惹き込まれて Part III まで行った時、突然こんなことが頭に浮かんできた。




クラシック音楽のトランペットが直線的、理性的、客観的、科学的、官僚的、決定論、機械論、還元主義、物質主義などの言葉を連想させるのに対し、ジャズのトランペットは複雑、自由、カオス、予測不能、主観的、生気論、哲学的、精神的、全人的などの言葉が当て嵌るのではないか。そして、ジャズトランペットの方が人間を幅広く表現でき、圧倒的な魅力を持っているように見える。それはこのジャンルや演奏家だけではなく、楽器自体も生き生きとしているのではないか。

このような対比が浮かんだのは、3つのことが結び付いたためではないかと思っている。一つは、もちろんマイルスのドキュメンタリー。二つ目は、その前に読んでいた科学と哲学の本。そして最後は、昨日観ていたシカゴ交響楽団のトランペット奏者アドルフ・ハーセスさんAdolph "But" Herseth, born July 25, 1921) のアトリエのビデオである。ハーセスさんは金管の素晴らしさでは定評のあるシカゴ響で1948年(27歳)から2001年(80歳)までの53年間に亘って演奏したという伝説の方で、もうすぐ90歳になる。その昔、趣味でクラシック音楽のトランペットをやっていた当時、その演奏に惹かれたものである。その実績とは別に、アトリエでのトランペットから出てくる音やお話に深みとでも言うべきものが欠け、今ひとつ面白くなかったこと、また並んでいる多くの楽器も余り生き生きとしてはいないという印象が残っていたことがこの対比の背景にあるような気がしている。

一夜明けると特に目新しい対比には見えないかもしれないが、科学と哲学に関する言葉が浮かんできたことが自分にとっては新鮮だったようだ。



ゲオルグ・ショルティ ― シカゴ妄想 (I-IV) (2005.3.27-4.3)


vendredi 8 juillet 2011

エレーヌ・グリモーさんのお気に入り


Maya : de l'aube au crépuscule,
collections nationales du Guatemala
(21 juin - 2 octobre 2011, Musée du quai Branly)



もうバカンスなのだろう。

静かな空気が漂っている。

昨夕のラジオ・クラシック。

頭の回転が速いのか、判断が動物的なのか。

いつもの早口でエレーヌ・グリモーさんが語っている。

Hélène Grimaud
(née à Aix-en-Provence le 7 novembre 1969)

ピアノでは決して真似できないというトランペットの表現。

お気に入りの一曲にはマイルスのこの曲を挙げていた。







もう一曲は、Sting のこの曲。

詩がよいという。






メロディーもなかなかよい。



jeudi 7 juillet 2011

チャールズ・サンダース・パースの人生


Charles Sanders Peirce
(September 10, 1839 – April 19, 1914)


こちらに来る前どころか、こちらに来てからもつい最近までは全く縁のない方であったチャールズ・サンダース・パースさんがいくつかの繋がりで浮かび上がってきた。この機会に、まず彼の人生を振り返っておくことにした。

彼はアメリカのプラグマティズム(彼自身は後にプラグマティズムとの差を強調するためにプラグマティシズム pragmaticism と呼んでいる)の創始者にして論理学、言語学、記号理論、数学の研究家、さらには精神と物質には連続性があるとする一元論を唱えた哲学者でもあった。生前に発表された作品は極めて少ないが、生涯に残した原稿は2万ページとも10万ページを超えるとも言われる。

彼は1839年マサチューセッツ州ケンブリッジ生れ。父親のベンジャミンはハーバード大学の数学教授。この父親から知的な刺激を受けて育つ。哲学的、科学的問題をあくまでもひとりで考えるという彼の生涯に亘る習慣は、若き日の環境に因る可能性が高い。また、そこに彼のオリジナリティの源泉があるとの見方もあるようだ。10代前半で論理学の教科書を吸収し、16歳からの3年間でカントの純粋理性批判を読み込んだ結果、その論理の幼稚さ故、カントの哲学体系は否定されなければならないと考えたほどで、生涯の思索は論理に照らしたものとなる。

ハーバード大学で化学を修めた後、1859年(20歳)から1891年(52歳)までの32年間、米国沿岸測量局に勤める。この間、彼の仕事は科学的な測定の実地と理論に関するものであった。この経験が後に彼を科学的決定論から遠ざけることになったとされる。

1879年(40歳)から1884年(45歳)までジョンズ・ホプキンス大学数学講座で論理学を教える職を得るが、彼の2度目の妻ジュリエットがジプシーで、しかも結婚前から一緒に生活していたこともあり職を失う。彼がアカデミックなポジションに就いたのはこれだけである。ハーバードでは彼のことをよく思わない人が1869年から1909年の長きに亘り学長でいたため、就職は叶わなかったという。

1887年(48歳)には親の遺産でペンシルヴァニア州ミルフォードに2000エーカー(8平方キロ)の土地を購入。そこを Arisbe と名付け、終の棲家となる。1891年(52歳)に沿岸測量局を辞めた後は、翻訳やコンサルタントのような仕事をして生活するという経済的には苦しい後半生になった。ウィキの記載によると、最後の20年余りは冬の寒さをしのぐこともままならず、原稿を書く紙にも苦労したという。この間、救いの手を差し伸べていた人の中に、大学時代から親交のあったウィリアム・ジェームズ(1842-1910)がいた。そして、1914年、極貧の中、ミルフォードで74年の生涯を閉じている。




Arisbe in the 1890's
Source: The Peirce Edition Project




mercredi 6 juillet 2011

2年振りの出会いや科学的形而上学のことなど


Jazz à la Villette 2011
(31 août - 11 septembre)


昨日はビブリオテークに向かったが、メトロが途中で止まり下車。もう慣れっこになっている。お蔭さまで久しぶりの研究所へ向かうことに。図書館ではナント大学のローランさんとばったり顔を合わせる。テル・アビブの会議で会って以来なので、2年振りということになる。そんな感じは全然しないのだが、時の流れは恐ろしい。彼は昨年ラマルク以降の科学者の流れについて本を出したので、そのお祝いを言う。誠実に仕事を進めるタイプで好感が持てる。

Anna Zeligowski さんの展覧会、そしていくつかの出会い (2009-06-09)
Qu'est ce que le néolamarckisme ? (Laurent Loison)


研究所では締りのない時の流れとなることが多いのだが、久振りのせいか比較的きりっとしていた。途中、ル・モンドの読書欄を一月分覗く。その中に、新しくコレージュ・ド・フランスの 「知の形而上学と哲学」 (Métaphysique et philosophie de la connaissance)講座の教授になったクロディーヌ・ティエルスランさん (Claudine Tiercelin) の紹介が出ていた。ジャック・ブヴレスさん (Jacques Bouveresse) の後任になるのだろうか。また、この選考が想定外だったようで、選考に纏わる話がいろいろあることを知る。彼女の守備範囲がフランスの哲学界で扱われるところから外れていることに違和感を覚える人もいるようである。

L'inconnue du Collège de France (La Nouvel Observateur, 14 juin 2011)

ル・モンドの記事の中にあった 「科学的形而上学」 ' métaphysique scientifique ' という言葉に目が行く。彼女の最近の作品にもこの言葉が使われている。科学時代になって、ややもすれば揶揄の対象にもなりかねない形而上学。科学の世界にいた者として、その対極にあると思われる形而上学の世界に興味を持ったとしても何の不思議もないだろう。その世界を覗くためにこの道に入ったと言っても過言ではないのだ。しかし、その形而上学を科学的に扱おうというのだろうか。そこにどんな世界が待ち構えているのだろうのか。興味が湧いている。

クロディーヌさんの対象には、彼女が 「アメリカのライプニッツ」 と呼ぶチャールズ・サンダース・パース (1839-1914) が入っている。記号論の先達でもあり、何かの繋がりを感じる。パースはプラグマティズムの提唱者とされるが、真理を功利に、知を行動に矮小化して紹介されていると彼女は見ている。実際にはその逆で、パースこそ真の科学的哲学者であり、 偶然に支配される宇宙において、どのようにして価値や規範が生れるのかを自問した人であると捉えている。

就任講義 (2011年5月5日) はこちらから。



帰ってラジオをつけると、小沢征爾さんがOzawa Englishで話している。Seiji Ozawa International Academy Switzerland が3日(日)にジュネーブでコンサートをやった後、明日パリ(Salle Gaveau)でコンサートを開くのを機に話を聞くという趣向のようだ。その冒頭で、小沢さんは最高の音楽としてディヌ・リパッティ (Dinu Lipatti, 1917-1950) 演奏によるバッハの 「主よ、人の望みの喜びよ」 (Herz und Mund und Tat und Leben) を挙げていた。








mardi 5 juillet 2011

ヤスパースからニューヨークでの会話へ、あるいは内なる声に忠実に



深夜、何を思ったか、昨年の夏神戸の古本屋で手に入れた新品同様のヤスパースを手に取る。いずれ読むと思ったのだろう。それを読んでいる時、ニューヨークでの会話が浮かんできた。それは懇親夕食会のビストロで横になったロンドンの建築家転じて哲学の院生になった方とのものである。

その時、どうして今、哲学などをやっているのかと聞いてきた彼に対して説明をしていた。その中で、自らの内なる声に忠実に従っているうちにこうなってしまった、というようなことを話したのだろう。それに対して、あなたはアンビシャスな人ですね、と彼が言ったのだ。その二つがどうしても結び付かなかったので、なぜそう思うのかと尋ねると、彼はこう答えた。自らの内なる声に忠実であろうとすることこそアンビシャスなのではないのですか。論理的には答えになっていないが、彼はそれ以上のことは言わなかった。

この会話が思い出されたのは、おそらく、ヤスパースが35歳の時に出した著作に哲学とは?という大きな問題に立ち向かう意気込みのようなものが溢れているのを感じ、アンビシャスという言葉が浮かんだからではないだろうか。



lundi 4 juillet 2011

未だ余韻の中か


Le Festival Paris Cinéma
(2-13 juillet 2011)


今日もよい天気だった。
コペンハーゲンから約束通り論文が届き、早速読み始める。
注文した本も新たに届いたが、執筆陣の半分以上が会議で発表されていた方々。
本の中身が急に近いものに感じられる。
やはり、人間同士の接触が学問の上でも大切だということだろう。

ニューヨークの疲れも残っているのか、まだ完全にこちらのペースには入っていない。
しばらく様子を見るしかなさそうだ。



dimanche 3 juillet 2011

リブレリーで先達を発見



朝、完璧に晴れ上がった空を味わった後、外出。
先日のリブレリーで見つけた先達に当たるような方の本とともに。

その方のお名前はアラン・スタール (Alain Stahl) さん。
ホームページによると、1926年2月のお生まれなので御歳85。
本のタイトルは Science et Philosophie (科学と哲学)で、昨年出た第2版。
第1版を2004年 (78歳) に出され、84歳で改訂されたことになる。
年齢もあるので新しい著作を物するよりは処女作を深めたいと考えたようだ。

経歴を見てみると、次のようになる。
1947年に大学を出た後、化学畑の企業で仕事をされ、1987年(61歳)で退職。
1988年(62歳)から2003年(77歳)までの15年に渡って、科学と哲学について研究。
この間、1994年(68歳)にテーズを受理されている。

この本では物理学や生物学を取り上げ、哲学的な問題を論じている。
この領域を改めて学ばれた過程がそのまま表れているように感じられ、参考になる。
筆致も誠実な人柄を感じさせる丁寧なもので、好感が持てる。
折に触れて参考にさせていただきたい本になりそうである。


samedi 2 juillet 2011

精神が外に浸透を始める



今日はゆっくりと過ごす。今回のニューヨークの会もそうだったが、こちらに来てからは日本人はもとより、東洋人さえいない会に参加することがほとんどになっている。フランス語か世界語としての英語の世界に生きていることになるが、次第に違和感がなくなっている。わたしのいる学問の世界では特に日本を意識する必要がないこともあるだろう。この広い世界に浮いているようなそんな感じがしている。フランス滞在4年目にしてやっと外に溶け始めているようである。

その昔アメリカに滞在した折には、やはり4年目のある日に英語が右から左にわかるような錯覚に陥った。フランス語ではまだそのような時は訪れていないが、精神が周りへ浸透し、内と外の圧力の差がなくなりつつあるような印象がある。しかし、これはあくまでも主観の世界で、外から見るとある型に嵌った東洋人がそこにいるはずである。

そこで思い当たるのが、パリに来てからの経験である。こちらは周りと変わりないつもりでいるのだが、明らかに異質な人間がそこにいることに彼らは気付いている。あるいは、今回のニューヨークの会でもこちらは他の人と同じような参加者のつもりなのだが、周りの人は初めて見る人がそこにいることに気付いている。という具合で、どうも周りからの視点が抜け落ちているようだ。そうでなければ、そのことが気になって外の世界にはなかなか出て行けないだろう。今のところ、その視点の欠如はよい方に作用していると考えておきたい。





今朝のラジオ・クラシック。ポーランドが昨日から年末までの半年間、EU理事会議長国になることを記念してポーランド関連の音楽を流していた。そう言えば、昨日の演者はポーランド出身だった。




vendredi 1 juillet 2011

お昼のはずが夜



今日はお昼からのセミナーに出掛けたが、扉が閉まっている。秘書の方に聞いてみると、夜に延期になっているという。昨日確かめた時にはそのような記載はなかったのだが、、。終わってからビブリオテークに行く予定にしていたが、変更してカルチエラタンに留まることにした。お蔭さまで二つのリブレ リーに入り、数冊仕入れることになった。少しパリのペースに戻りつつあるように感じる。





セミナーはミラノのヨーロッパ分子医学校の方。ポーランド出身でお名前の発音が難しい。テーマは免疫系の働きについてで、病原性のある微生物とわれわれの体と共生する微生物がどのような機構で識別されているのかに焦点を合わせていた。お話の印象では、なかなか一筋縄ではいかないように見えるが、面白そうな領域であることは理解できる。



Dr. Swiatczak & Dr. Gerard Eberl (Institut Pasteur)


このセミナーでは講演の後に討議者 (discutant; 英語は discussant) がコメントを加えるが、今日はパスルーツ研究所のジェラールさんがその役を担っていた。わたしはあなたの問の出し方が間違っていると思います、とはっきり言ってから、その論拠を挙げていた。対立点をはっきり提示して始めたためか、議論が盛り上がり、わたしもその中に引き込まれるほどであった。その意味ではジェラールさんは討議者の役割を充分に果したと言えるだろう。最後は病原性をどのように定義するのか、できるのか、さらに免疫系をどう見るのか、という根源的な問題になり、予定を超える刺激に溢れる会になった。

飛び交う英語を聞き、ディスカッションに加わりながら、こういう音の中で生活しているので知らない間に不思議な英語が感染し、共生してしまうのだろうな、などと考えていた。会の後、ニューヨークでのエピソードを話すと想像以上に受けていた。




帰りのメトロでのこと。
この駅名を見て、一瞬どこにいるのかわからなくなった。
一体、いつからこんな字体に変えたのだろうか。
本当にお茶目なパリジャンだ。