lundi 19 septembre 2011

ニーチェのフランス観、あるいはフランスへの愛



・・・・・・普段私が頼みとしているのは、ほとんどきまって同じ書物、結局は少数の、まさに私向きの本だと証明ずみの書物ばかりである。多量かつ多種類の本を読むのは、おそらく私の流儀ではあるまい。書斎などというものは私を病気にしてしまう。多量かつ多種類の本を愛好するのもまた、私の流儀ではない。新刊書に対する用心深さ、否、敵意とさえいるものが、「寛容」 や 「雅量」 やその他の 「隣人愛」 よりも、ずっと私の本能に属している。

・・・・・・結局、私がいつもそこへ立ち戻って行くのは、少数の、やや前時代のフランス人の許へである。私はフランス的教養をしか信じない。通例ヨーロッパで教養の名で呼ばれているものは、ことごとく誤解だと私は思っている。ドイツ的教養に至っては言わずもがなである。

・・・・・・ごく稀に私はドイツでも高い教養を持った人に出会ったことがあるが、それはすべてフランス系統のものであった。なかでもコージマ・ヴァーグナー夫人。趣味の問題にかけて夫人が放った発言は、私が聞いた限りではずば抜けて第一級の言葉である。




・・・・・・私はパスカルを読むのではなく、愛している。パスカルはキリスト教の犠牲として最も教訓に富む事例であって、はじめは肉体的に、次いで心理的に、じわりじわりと嬲り殺しにされて行ったのだが、この身の毛もよだつ形式の非人間的残虐の全論理を、私は愛している。私はモンテーニュの洒落気たっぷりの悪戯心の幾つかを精神の中に、否、ことによったら身体の中にも受け継いでいるかもしれない。私の芸術家に対する趣味は、モリエールコルネイユラシーヌの名前を、多少業腹だと思わなくもないが、シェイクスピアのような野性的天才に対抗して庇護している。以上、前時代のフランス人たちばかりを取り上げたからといって、それはごく最近のフランス人たちも私にとってやはり魅力ある一団をなしていることを、何ら妨げるものではない。歴史上どの世紀に網を張っても、現代のパリにおけるほど、あれほど好奇心に溢れ、しかもあれほど繊細さに満ちた心理家たちを掬い蒐められる世紀がほかにあるかどうか、私はまったく見当がつかない。試みに――というのはその数たるや決して小さくないからだが――これら心理家たちの名を挙げてみよう。ポール・ブールジェピエール・ロティ、ジプ、メイヤックアナトール・フランスジュール・ルメートルの諸氏。もしくは、この強力な種族の中から唯一人を強調するとすれば、私が特別に愛好している生粋のラテン人、ギィ・ド・モーパッサン。打ち明けて言うと、私は以上の名を挙げた人々の属するこの世代を、彼らの偉大な先生格の人々の属する前時代よりも好きである。先生格の人々はおしなべてドイツ哲学によって毒されている。例えばテーヌ氏ヘーゲルによって毒され、ヘーゲルのお蔭で、彼は偉大な時代や偉大な人間を誤解してしまっている。ドイツの息がかかると、文化は駄目になるのだ。戦争が来てやっとのことでフランスの精神は 「救済」 されたのである。




・・・・・・スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。――なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。――このスタンダールという人こそ、まことに並みの評価の及ばぬ存在である。物事の先を読む心理家としてのその眼。ナポレオンという当時の最大の事実性の間近にいたことを想起させるその事実把握 (すなわち、「爪によってナポレオンを知る」 ex ungue Napoleonem)。最後に、彼が正直な無神論者であることも、少からず貴重なことだと思う。無神論者というのはフランスではきわめて数の少ない、ほとんど見当たらない種族なのであるから。――もっともこの点ではプロスペル・メリメにも敬意を払っておかなくてはならないが。

・・・・・・ひょっとするとかく言う私自身は、スタンダールを嫉んでいるのではあるまいか? 彼は 「神がなし得る唯一の弁解釈明は、神が存在しないことである」 という、最良の無神論的警句を残しているが、これはこの私こそが吐き得たろうと思われる言葉であって、彼に横取りされてしまったのだ。


ニーチェ 「この人を見よ」 (西尾幹二訳)




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