samedi 17 décembre 2011

日本が譲れないもの、未だ見えず



日本に向かう前に、日本を特徴づけるものが何であるのかについて触れた。それを知りたいという思いは変わらない。日本滞在中も注意していたが、日本が最後まで譲れないもの、これがなくなれば日本ではなくなるものについての落ち着いた考察や議論がなされているようには見えなかった。そんなことをしたら日本が壊れてしまうという言葉は出るが、思考が滑ってしまい、その場合の日本的なるものとは何を言っているのかという厳密な、敢えて言えば(人文・社会)科学的な分析が見られないように感じた。科学者や哲学者の発言が求められるのだろう。

日本を特徴づけているもの、そしてモンテーニュの視点 (2011-11-12)



加藤周一対談集 「歴史・科学・現代」 (1973, 2010)


流れている情報とは別に、目に触れた本を何冊か読んでみた。フランスから日本に戻り日本語の本を読むのは以前ほど興奮しなくなっている。今回は書庫に入ろうという気分も起きなかった。しかし、緊張感を維持しながら日本語を読めるという点は今も変わっていない。今回読んだ中に、上の写真の対談本がある。本書は1973年に平凡社から出たもので、昨年ちくま学芸文庫に入った。

日本や東洋の歴史や文化を考える上で読んでおきたい本がいろいろ出てくるので参考になった。加藤さんには西欧との対比で日本を見る視点がある。思弁的ではあるが、本人の体験に根差した思考になっている印象がある。この見方にどれだけの日本人が付いて行けるのだろうか。それと、深いところで日本の体制に批判的な眼差しがあるように感じた。その視点から見えてくる日本人の考え方の癖、特徴として、集団所属性と非超越的世界観をあげている。不変で普遍的なもの、絶対的なものに依拠して考えるという習性を持たず、集団に属することで安心し、その規範に身を委ねているので真の意味で考えることをしない。自らが身を委ねている規範そのものについて考えようとする態度、ここで言うところの哲学的態度がないのだ。集団として纏まっていることを最優先にしてしまうからだ。ただ、これは日本人の習性を指摘しただけで、日本人が護らなければならないものを探るという積極的な姿勢ではないだろう。わたしが求めていた問に対する解は見つからなかった。

今回、一つ気付いたことがある。加藤さんの場合は医学からスタートしてもの物書きとして生計を立てている。百科全書的な知識を得ようとしたのか、一生懸命勉強した跡が見え、その発言には多くの事実が詰まっている。そのためだろうか、想像の羽ばたく空間が小さい印象を拭えなかった。事実を受け入れるわたしの許容範囲を超えているのか、息苦しくなるのだ。解説的になり、別にそうあるべきだとは言わないが、哲学的な雰囲気はなくなっている。もう少しわたしの知識が増えるとこの印象も変わってくるのかもしれないが、、。これに対して、対談相手の一人になっていた湯川秀樹さんは理系に軸足を置いていることもあるのか、哲学など文系のことを論じる時にも捉え方がゆったりとしていて発想が柔らかい印象がある。思索の巡らせ方がより哲学的に見える。どちらかというと、湯川さんのお話の方が魅力的で好感が持てた。これまででは考えられないが、湯川さんの本をさらに数冊手に入れることになった。

もう一つ気になったのは、湯川さんとの対談の中で、加藤さんは「デカルトはタブラ・ラサ、白紙還元ということをいっている」と語っている点。デカルトはむしろ生まれながらにして人は考えを持っていると考えていたはずなので、これは事実誤認ではないだろうか。あるいは、デカルトがそう考えていたからこそ、正しい答えに至るためには間違った考えを白紙に戻さなければならないという意味で言っているのかもしれないが、、。専門家のご意見を伺いたいところだ。





もう一冊、わたしの問に対する解があるのではないかと思わせてくれるタイトルの対談本も手に取ってみた。鶴見さんの考えを聞くというスタンスで関川さんが対しているので対談というよりはインタビューに近い。

鶴見さんは黒船が来た1853年が決定的な年だと考えている。それ以前にはジョン万次郎(1827-1898)や大黒屋光太夫(1751-1828)のような個人がいたが、明治以降、鶴見さんの言うところの 「日本という樽」 の中で人間が育成されるようになり個人が消えた。そして、この 「樽」 は第二次大戦後も維持され、今日に至っていると見ている。その中で身につける思想や教養は 「樽」 の中でしか通用しないものになり、そのことさえ自覚できなくなる。日本の知識人の教養を鶴見さんは skin deep と形容している。うわべを飾るだけの皮相的なもので、すぐに剥がれるからである。そして、そこからは 「本物の思想とは何か」 という問に向かわなくなる。これはこの場で頻出する 「枠」 の話と同質のものになるだろう。

鶴見さんの思考はそのベースに具体的な人間があり、そこから本来の人間はどうあるべきなのかというところに向かっていく。そのため興味深いお話が沢山出てくる。しかし、基本的には過去や現在の分析が中心で、日本人として譲れないものについては語られていなかったように思う。そういうものがあるのかという根源的な問いも含めて、これからも注視していきたい問題になる。

この中で注意を引いたところがあった。それは、勉強会ではなくサークルという場について語っているところだ。勉強会となると競争意識が出てくるが、サークルの場合には自分の言ったことが誰によって使われてもいい豊かな感覚の場所であると指摘した後、彼はこう言っている。
「自己教育というサークルでね。独学とは何か。そのサークルの集いの中で、何か、目から鱗がパッと落ちる。そこです」
わたし自身が最近始めた 「科学から人間を考える試み」 なる小さな営みのことが頭にあったためかもしれない。



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