dimanche 22 janvier 2012

どんよりとした一日、30年前の日本を観る




今日もどんよりとした曇りの一日

こちらの精神もどんよりとしたまま

完全休養とした






午後、わたしがまだアメリカにいた時の番組に行き着く

みなさん、お若く血気盛んだ

教育やマスメディアの問題が出てくる

すでに30年前から多様な価値の選択に箍が嵌められている様子が伝わる

「自由」 という言葉が力を込めて語られていることに驚く

大切なのは、決めつけずに 「もの・こと」 それ自体を目を開いて観、語ることに尽きるのか



30年を経てさらに窮屈になり、熱が失われているように感じる

指摘されている問題の根底には哲学的営みの欠如があるように見えてくる

そう感じるのはわたしだけだろうか



2 commentaires:

  1. “30年を経てさらに窮屈になり、熱が失われているように感じる”というお言葉に共感しています。
    現在の先進国では昔のような勢いや熱意は冷めていて、少しペースが落ち、各自が自分のことに終始しているような感じがしています。学ぶということも、かつてと意味が少し変化していて、いかに社会で生き残るかということが重要視されているようです。といいつつも、これも時代の流れ、変化として逆らうことのできないものであるようにも思え、各人の良心に根差した学びや、視野を持つことが大切なのではないかと考えています。
    (ここ一年ほどこちらのブログを拝見しておりますが、コメントさせていただくのは初めてです。学問についても全くの素人でこのようなことを述べ、失礼いたしました。奈良市のツキスミと申します。)

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  2. ツキスミ様

    コメントならびに長い間訪問していただいているとのこと、ありがとうございます。

    30年前の討論を見て、皆さん突き抜けるように語っているのに新鮮な驚きを覚えました。最近でも似たようなことをやっているのかもしれませんが、自分の芯から出てくる迫力のようなものを感じることはなくなっています。どこかで社会のタガを意識しているのか、あるいは深く考えていないのかもしれません。

    お話のように、学びに生き残りがかかるようになると益々技術に走ることになり、多様な人間が出難い環境になるのかもしれません。そういう状況そのものについて考え、処方箋を出そうなどという人は出てこないのではないでしょうか。日本という閉ざされた環境にいると意外に快適なところもあり、閉塞状況に風穴を開けるような人は出難いのではないかという予感もします。ただ、風穴を開けることが先に来て、野蛮に走るというのも困るとは思いますが、、、。

    これからもよろしくお願いいたします。

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