jeudi 26 avril 2012

走っている時と止まった時に見えるもの



一夜明け、これまでお世話になったパソコンを見直す。カバーに凸凹があり、相当に酷い。このパソコンはわたしの頭を守ってくれたことがあり、凸凹はその時の痕だ。


その恩も忘れ、最後の方は叩きつけるようにカバーを閉めていたことを思い出す。これでは悲痛な声を上げない方が不思議だ。使っている時にはこの傷が目に入らなくなるのだ。

同じことを今回の日本で経験した。それは数年間に亘って履き続けた我が靴。気に入っていたのか、毎日休むこともなくお世話になった。パリでは気付かなかったが、この靴を日本でじっくり見直すと相当に酷いのだ。これも日本で同じ型を手に入れることにした。観察する側の中身の違いが見え方を決めている。その昔、日本の我が机の酷い状態に気付いた時にも感じたことがある。


これらの経験は、走り続けている時と立ち止まって見る時とでは、同じものが違って見えることを教えてくれる。これを内面の状態の観察に当て嵌めると、どうなるだろうか。今回の日本で例外なく強調した、自らを振り返る静止した時間、省察や瞑想の時間が大切になることに繋がるだろう。それは、この場では何度か触れている動的時間の後に静的な時間が必要になるというわれわれの祖先が教える真理そのものでもある。さらに、その営みは個人レベルだけではなく、社会においても当て嵌まるものでもあるだろう。今朝はそんな考えとともに目覚めた。



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