lundi 6 août 2012

夏の日に 遠く日本を眺むれば


もう2年以上も前になることに驚いている

以下の記事のコメント欄に、こんな観察を残していた


今の民主党は少し前のバージョンとは全く違うようです。
自民党よりもそれらしくやっているのではないでしょうか。
これから大変なことにならなければよいのですが、、

管直人内閣発足から1週間後のことである

先見の明などないはずなのだが、その後の経過を見ると予想を遥かに上回る惨状である


現実政治の力学などわからないが、この現象から二つのタイプの人間が見えてくる

何かを根本から変えることを本気で考えていた人間とそれを唱えることが権力に辿り着くための手段だった人間

 前者はまだその立場に立っていないので本物かどうかはわからないが、後者は間違いないだろう

別の言い方をすれば、こうなるかもしれない

枠の中でうまくやりましょうというタイプとその枠を見直すところから始めるタイプ

「御用・・」 のタイプを含む前者は、枠そのものの維持にも動く

後者は枠の存在に気づき、そこから出ることができた人間になる

哲学的視点を持っている人間とも言えるだろう


アポカリプスとは隠れていたものが白日の下に晒されることをも意味している

確かに、3.11以降、科学を取り巻く惨憺たる状況が明らかにされた

しかし同時に、日本の骨組みもよく見えるようになってきた

 それでも恰も見えないかのようにやっている人たちがいる

彼らは本当に見えていないのか、見えているが他にやり様がないのか

この問題、深いところでは人間の自立に行き着くのかもしれない


自立・自律的な人間はどうしたら生まれてくるのか

そういう人間を見ながら育つしかないのだろう

と同時に、そう生きても何の不都合も齎さない社会が必要になる

それを生み出し育てるのは、教育しかないのではないか

それは、個別の教科を教える教育では達成されないだろう

教科を超えたものの見方を教える 「教科」 がどうしても必要になる

それは哲学しかないだろう

ただ、「教科」 のように教える哲学ではなく、どこか絶対的なものへの視点を据えた哲学教育

それがどうしても必要になるのではないか



そんな考えが浮かんできた夏のパリの朝





Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire