samedi 13 octobre 2012

過去に埋もれる無数の友人


昨日も出がけにドア横の棚にあったヘーゲルさんに手が伸びた

それを読みながら、忙しくしている時には読む気にはならなかっただろうな、という思いが湧く

本を開いてもよくわからなかっただろうし、直接関係のありそうなことは書かれていない

哲学書は日常からは一番遠くにあるものに入るのだろう


ところが、いまは全く違う

時間がたっぷりあり、専門を離れているので、そこに何が書かれているのかが分かるまで読むことができる

読もうという気になるのである

哲学をするための必要条件の一つに時間があるのがよくわかる


そんな日々を送るうちに気付いたことがある

それは、いま街に溢れている本は忙しく時間に追われている人に向けてのものだということである

と同時に、書いている人も時間に追われているのである

そのため、「もの・こと」 のわかりやすい解説や技術に関するものが多くなる

「もの・こと」 の奥に入ろうとすると、物足りないのだ

特に、わかりやすい哲学などは哲学が何かを伝えるものにはなっていないのではないだろうか

そういう頭になってしまうと、急に古典が身近に迫ってくる

古典しか読むものが見当たらなくなる

その時、二千年以上に及ぶ人類が同時代人になるのである


古典には人類の智慧が詰まっているので読まなければなりません

というようなことを昔から聞いていた

そうなのだろうな、と思い読んでみたものの、本当の愉しみを味わうことはできなかった

務めとしての読みのためか、体ではわかっていなかったのだろう

それがいま、古人の言葉の意味が本当にわかるという状態に入っているような気がしている

 この5年ほどが無駄でなかったとするならば、そのことを体で理解したことがあるのではないだろうか

それは、数えきれない友人を新たに見つけたことを意味しているからである



そんな想いの週末の朝






雨音が聞こえ始めた午後、バッハとともに過ごす

ヨーロッパの深淵が口を開ける





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