dimanche 30 septembre 2012

マノエル・ド・オリヴェイラ監督の新作 Gebo et l'ombre 「ジェボと闇」 を観る



 午後、買い物にでも出かけようとした時、日本で手に入れたヘーゲルさん (1770-1831)の本が目に入る

出かけるのを待って立ちながら読んでみると、すんなり入ってくるので驚く

数年前であれば、読もうとするはずもない方である

買い物は後にしてカフェに向かう

2時間ほど読んではぼんやりし、ぼんやりしては読む

いくつかためになることが見つかった


帰り道、ポスターが目に入る

マノエル・ド・オリヴェイラさん (Manoel de Oliveira, 1908.12.11-) の映画であった

 Gebo et l'ombre 「ジェボと闇」

Bande-Annonceはこちらから

つい数日前に出たばかりとのこと

オリヴェイラさんは現役最高齢の映画監督で、もう少しで104歳になる

今書いているエッセイのテーマがセンテナリアン (百寿者) ということで、不思議な繋がりを感じる

一度帰ってから出直すことにした


ディジタル時代から遠くにある素朴で単調な映像

8年もの間不在の息子の帰りを待つ両親と息子の妻が住む家が舞台

主人公の父親ジェボさんを中心にした静かだが重苦しく繰り広げられる詮無いような会話

息子が帰ってきて激しいやり取りもあるが 、お互いに理解しあえない

人生が交わらなくなったようだ

103歳から見える人生とは、こんなものなのだろうか

まだまだ理解できるところまではいっていない


ジェボ役は、わたしの中ではすっかりお馴染みになったマイケル・ロンズデールさん(1931-)

Des hommes et des dieux 神々と男たち (2010)、 Les Hommes libres (2011) での演技が印象に残っている

「自由意志」 を聴き、"Les Hommes libres" を観る (2011-09-28)

毎年、秋の頃になるとお会いしていることになる

その他、もう74歳になるというクラウディア・カルディナーレさんや84歳のジャンヌ・モローさんなどが出ている

お二方とも監督から見れば子供みたいなものなのだろう


今日は適度にインプロヴァイズできた詩的な一日であったと言えそうである




samedi 29 septembre 2012

この世界を正確に認識することなどできるのか


この場の記事はワードなどに書いてから移すのですか、と聞かれたことがある

答えは、ノンである

ワードなどに向かうと妙にかしこまってしまい、それでなくても進まない筆が止まってしまうからだ

この画面に向かうと、なぜか言葉が紡がれてくる

なぜか、なのだ


ところで、いつも不思議に思っていることがある

それは、書き込んだ画面を読み直して問題がなくても公開した画面ではどこかおかしいと気付くことだ

単純なことでは、書き込み画面ではタイプ・ミスや変換ミスが目に入らないことが多い

入っているのだろうが、気付かないのだ

公開画面に行くと、すぐに気付くのにである

それから、言葉遣いや文章の流れについても同じことが起こる


自分だけで書いている時には、第三者の目を持つことが非常に難しいことを意味しているのだろうか

それが公開されているという意識が生まれて初めて、そのものを第三者の目でも見ることができるようになるのか

それほど、客観的にものを観るということは難しいことなのではないか


意識には2つのレベルがあると言われる

一つは、感知すること

もう一つは、感知したことを振り返ること

感知についてのリフレクションである

第二のレベルまで行かないと、本当に意識することにはならないのである

それでも完全ではないことは、このブログに確実にあるだろうおかしな文章を見れば明らかだろう


優れた感覚器を持っている人間だが、正確に感知することが如何に難しいものなのか

偉大なる哲学者も頭をひねってきた大問題である

そのことを改めて意識した週末の朝



vendredi 28 septembre 2012

新たなリズムが生まれる


今朝は昨日の集中のためか、ひとつのアイディアとともに目覚める

それが消える前にまとめてしまう

それからバルコンに出て、関連するところを探る


午後からは資料集めのため久しぶりの研究所へ

2時間ほどで終わる

カフェに場所を移し、さらに2時間ほど瞑想と称してぼやっとする

今日も比較的集中できたようだ




jeudi 27 septembre 2012

サクレ・クールあたり


 特に何もない時は籠もり気味だが、今日は午後から外出の気分

本当に久し振りにモンマルトルへ

空港からタクシーの時、遠くにその陰影が見えるとパリに戻ってきたことを感じる

今日は観光客になり、間近で見る

散策の後は近くのカフェで考え事

帰りにルイーズ・ミシェル公園横のリブレリーへ

暫しの間味わっていると数冊が目に入ってくる

すぐに帰るのがもったいなくなり、下のカフェで読む
 
久し振りの小飛行だったためか、妙に集中できた

時に飛行を取り入れる必要がありそうだ


ところで、この一角には思い出がある

まだ日本にいる時にパリを訪問した折、このあたりを歩いたことがある

何とも言えない後ろ向きの雰囲気が漂っていて、こんなところにいてよいのかという強い違和感を覚えた

健全な日本からくると、そこにはデカダンの匂いが充ちていたのだ

今日はその違和感が遥か彼方に見えるだけであった

 デカダンが体の一部に滲み込んできたのだろうか







mercredi 26 septembre 2012

夕刻、古代人になり完璧な虹を味わう


 


 



今日の夕方、激しい雨が降る

その雨があがったところで、完璧な虹が姿を現した

かなりの長時間に亘って味わう

途中、上から2番目の写真で微かに見えるが、二重の虹まで現れてくれた

いずれも肉眼の方が素晴らしかった


 先日の不思議な虹の後に何かが起こった

これほどのショーの後に何も起こらないということがあるだろうか

期待だけ高まってくる

もはや、古代人の世界である




いつまで続くこの多元的な世界


今週のパリは曇りか雨の日が続いている
 
今朝のバルコンでは、今回の日本に向かう前の頭の中の状態が浮かんできた

こちらでは大学の論文と連載のエッセイを抱えている

それに加えて、日本の学会と研究所での講演、「科学から人間を考える」試みについて考えていた

本来の学業が疎かになるのがよくわかる


そしてこれからを思い描くと状況は何ら変わっていないことに気付く

やはり、年末に向け、学会と大学での講演、それに科学と哲学を語る試みが待っている

これ程いろいろなことを考えたことが今までにあっただろうか

偶に相互に絡み合ったアイディアが浮かぶことがあるのが唯一の救いだろうか

いつまで続くこの世界、という印象である




mardi 25 septembre 2012

久しぶりにフランス語の夢


寒さを増しているパリ

昨日、久しぶりに新しい環境でフランス語を話したせいか、このところ経験のないフランス語での夢を見た

昨日のように日常的にフランス語を話していると、少しは上達するのだろうが、、、





lundi 24 septembre 2012

不思議な虹はお告げだったのか


今朝、雨音が聞こえる

早速バルコンへ

しばらくすると晴れ間が覗く

そして不思議な虹が現れた


午前中は用事があり、街へ

予想もしていなかったよい話を聴く

先はわからないので、当面は、という話にしか過ぎないが、、、




dimanche 23 septembre 2012

日本の余韻の中、『文明の生態史観』 に目を通す


今回の日本では古本屋に足を運ぶ時間は取れなかった

それどころではなかったということだろう

 ただ、普通の本屋さんを見かけると入り、気になったものを手に入れた

荷物を二つ持ち帰ることができるようになったことも、抑制を失わせる原因になっている

 その中の一つに、梅棹忠夫氏 (1920-2010) の『文明の生態史観』が含まれていた

最近、この本のことに触れたコメントをO氏からいただいていたからである


昨日よりも寒い今朝のバルコン、最初の方に目を通す

「東と西のあいだ」
「東の文化・西の文化」
「文明の生態史観」

今回初めて読み、生態史観なるもののポイントがわかる

と同時に、今回の日本で取り上げたテーマの一つと関連していることに気付き、驚く

「文明の生態史観」 の中で、系譜論と機能論について論じているところがある

 系譜論では、文化の要素の由来を問題にして論じる

それに対して、機能論は今ある形がどのようなデザインになっているのかを論じ、要素の由来は視野に入れない


この対立は、生物学において機能をどのように見るのかの対立と重なって見える

長い生命の歴史の中で機能を考える進化を前提にした見方と梅棹氏の言う系譜論

そして、今ここにあるシステムの中での機能を考える見方と梅棹氏の機能論

梅棹氏は、系譜論を排して機能論に組する

これほどまでに二者択一でよいのだろうかと思うくらいだ

さらに、現代人の共通ののぞみは 「よりよいくらし」(生活水準の上昇)で、「心の平安」はそれに及ばないと言っている

そこで必要になるのは、技術であり精神ではない、と断言している


この二つの選択、底で繋がっているように見える

それは、今わたしが抱いている考えとは必ずしも相容れない

これが書かれたのは戦後12年の1957年

当時の時代の空気が反映されているのだろうか


梅棹氏が世界史を勉強したいと思ったのは、人間の歴史の法則を知りたいからだという

これは偏見かもしれないが、日本人からはなかなか出てこない願望のように見える

この点には共感するものがある




samedi 22 septembre 2012

秋のバルコン、九鬼周造のエッセイを読む


前ブログに届いたコメントの中に、醸し出される雰囲気が九鬼周造(1888-1941)のそれと重なるという言葉があった

その記事を見つけることはできなかったが、以下にこの哲学者について触れている

読者との興味深いやり取りも残っている



この接触が頭の何処かに残っていたのか、今回の日本で 『九鬼周造随筆集』 に手が伸びた

今朝の寒いバルコンでいくつか読んでみた

「青海波(せいがいは)」
「偶然と運命」
「回想のアンリ・ベルグソン」
「秋」
「秋の我が家」
「ある夜の夢」
「岡倉覚三氏の思出」

そして、菅野昭正氏による 「解説」


 どのエッセイも実にすんなり入ってくるのに驚く

興味の向かう方向にもどこか通じるものがある

フランスの影響を受けていることも関係あるのだろうが、それだけだろうか

秋の日差しを浴びながらの満ち足りた時間となった



vendredi 21 septembre 2012

久しぶりのカルチエ・ラタン  雨




久しぶりのカルチエ・ラタン

わずか数週間だが、リブレリーも新鮮で何冊か目に飛び込んできた

雨が降り始め、カフェで雨宿り

日本の喫茶店では味わえない何かがこちらのカフェにはある

日本にいると絡みついている社会的なコンテクストから自由であることを改めて感じる

仕事をしていないこともあり、コンテクスト・フリーの状態がさらに明確になる

そのため、日本ではある枠の中で与えられる、あるいは意識的、無意識的に自分に課す役を演じる必要がない

生身の自分とたっぷりと対峙することができる

広がる世界の奥に入ろうとする意欲を掻き立ててくれる

それが意識の深みに沈んでいるという錯覚を生んでいるのだろうか


雨がなかなか止まないカフェからのアップとなった



jeudi 20 septembre 2012

パリ到着、日常の後の沈潜が始まる


やや肌寒いパリに戻ってきた

日本滞在中は多くの方にお会いすることができ、貴重な時間となった

交わした会話の中にこれから先のヒントが隠れていることがある

折に触れて反芻したいものである


こちらに向かう飛行機に乗り込んだ途端に意識が沈み始めた

意識の底に向けて沈むという感覚である

日常に追われるということは、意識のごく表層のところで「もの・こと」を処理していることに他ならない

沈ずむこと、深く振り返ることを妨げる

テレビなどを見ているとその効果覿面で、最後までこの事実に気付かずに終わりそうだ

そのことが移動を通じてよくわかる

これまでの表現で言えば、日本が居間なら、こちらは書斎であり、庵であり、頭の中でもある

別の表現にすると、日常と沈潜のリズムを取っている生活とも言える

意図したわけではないが、よく観察するとこのリズム感はなかなか捨て難い

充実した日常が終わったところで、今度は沈潜のフェーズが始まることになる




mercredi 19 septembre 2012

日本最後の夜、これからの問題を語る


今回の滞在の最後の一日

夜は神経心理学会でお世話になった武田会長宅にお呼ばれ

学問や学会のあり方、そして広く人生について、奥様を交えてお話を伺った

恰も当然のこととしてものを観る、過去からの流れだからといって 「こと」 を行う

これは考えていないことの証

そこからの脱却がこれからの問題

閉塞感から解放されるために、最も大切になることだろう

これすなわち、哲学の活用になる

この世界をどう観るかの問題になるからだ

根本的なことはそれほど多くない

そこを捉えて前に進むしかないのだろう

貴重な時間となった

今回、教育講演という大役を任されたが、その任を果たすことができたのか確信が持てない

ただ、わたしにとっては貴重な経験になった

このような機会を作っていただいた武田氏には感謝したい



今日のお昼はやっと解放された気分になり、映画でも、と探す

日本の歴史上の人物を扱った映画、 『天地明察』 が目に留まる

江戸時代前期の囲碁棋士にして大和暦を創った二世安井算哲(1639-1715)、後の渋川春海の物語

宣明暦授時暦大統暦?などの名前を初めて聞く

暦を公家が押さえていて、それが彼らの利権になっていたという

ただ、なぜ正確な暦が必要になるのかという理由が今一つ説得力に欠けていた

単に吉凶を間違えると不都合というだけだったのか

あるいは、何かを見逃していたのか


ところで、昔の人は成長に伴い名前を変えていた

そこには深い知恵が働いているようにも見える

人の一生、区切りをつけて歩むことができるようになる

一つの道を歩む場合でも時代により目指すところが変わっているはず

流されずに人生を見直すためにも、一つの切っ掛けになりそうだ

新しい道に入った今、昔の人であれば以前とは違う名前を付けていたのではないか

どんな名前にするのかを想像をするだけでも愉快になる




mardi 18 septembre 2012

元研究室メンバーと結局は哲学・科学談義

 元研究室メンバーの皆様


パリに向かう前の研究室で仕事を共にしたメンバーと1年振りに食事を共にした

今はそれぞれの道を歩まれている

皆さんお元気そうで何よりである

この中のお一人は、先週木曜のわたしの講演を聴いていたという

これまではゴリゴリの物質主義者だと思っていたが、わたしの話を咀嚼して聴いていたことがわかり、驚く

意外にいろいろな哲学との親和性があるのかもしれない

「嫌い嫌いも好きのうち」 に真理は含まれているのか

来年はわたしよりも哲学的になっているのではないだろうか

このようにして少しずつものの見方の多様性が広まっていくと、何かが変わっていくのではないか

そんな希望が生まれていた







lundi 17 septembre 2012

秋の宵 老いを言祝ぐ 空の上


今日は、古い友人とのディネのため出かける

軽い通り雨がある

古いとは言いながら、正確には若き日にお会いして以後、長い空白の時間があった方になる

このところ、帰国の度に新しい場所を紹介していただいている

久しぶりに東京の夜景を26階から眺める

ディネの話題は普段考えたこともない老いの話が多かったように記憶している

敬老の日に相応しいというべきか

どこか、先日の会で取り上げたテーマにも繋がってくるものであった

 これから世界が広がると思っている若い人にはピンとこない話題かもしれない

わたしにもまだピンときていないようなのだが、、、



samedi 15 septembre 2012

小さな謎が解ける


今年の3月に以下の記事を書いた


わたしにとっては印象に残る出会いであった

最近、この記事がよく読まれていることに気付き、不思議に思っていた

こちらの気持ちが記事のどこかに出ているのだろうか、くらいに考えてそのままにしておいた

よく考えると、理由にはならないはずなのだが、、、 

そして今、ジョン・マクタガート(1866-1925) という哲学者の繋がりで、ウィキのジュリアン・バーバーさんのページに行って驚いた

そこに見覚えのある言葉が並んでいたからだ

「時間を追いかけてきたジュリアン・バーバーという科学者」

ここからのアクセスが影響している、とほぼ確信することになった

ネットの世界、どこで何が起こっているのか、予想もできない



神経心理学会で話が繋がり、驚く

今福一郎 (横浜労災病院)、西川隆 (大阪府立大学)、武田克彦 (国際医療福祉大学) の各氏


この世界、何が起こるかわからない

なぜ、いま、ここに、わたしがいるのかわからないという感覚に陥ることがある

昨日はまさにそれであった

何と日本神経心理学会という学会で教育講演という大役を担わされたのである

学会長である武田克彦氏からのお誘いであった

吉本隆明氏だっただろうか、何事も10年やればプロですよ、とのことだが、その伝で言ってもまだ半人前

常人の感覚では考えられないお誘いであったが、学問の背景も知らない中、引き受けた方も相当なものである

学生に頼むのだから、それは頼む方の責任だとでも思ったのだろうか

 いくら半人前だとしても、知を愛する語りである哲学にお誘いする営みに躊躇があってはならないと感じたのか

お誘いを受けてから折に触れ、この学問を取り巻く哲学的問題について考えていた

一番困ったことは、会員の皆様の頭の中が全くわからないことであった

自分の領域であれば、ある程度の想像がつくので話のツボのようなものがわかるのだが、それができない

結局、会場に向かう寸前まで苦しんだ


お話は40分と言われていたのでそのように準備したのだが、結局10分以上オーバーしたのではないだろうか

特別講演以上の時間を頂戴することになった

話始めてこれまでになくゆっくり話していることには気付いていた

理解されるように、あるいは理解されているのかどうかを確かめながらのことだったのだろう

ただ、それほど気にすることもなく続けていた

そして予定の半分を経過した頃、事の深刻さを把握

時間内にはとても終わりそうにないのだ

座長の労を取っていただいた八田武志先生(関西福祉科学大学)に確認すると、実に寛大に対応していただき、驚く

 その日の最後だったこともあるのか、ありがたく、そして心置きなく話し終えることができた

オーガナイザーの皆様には感謝しかない


この日、武田克彦氏の会長講演、佐伯胖氏 (青山学院大学) の特別講演があり、教育講演へと続いた

両氏の講演内容と繋がるはずもないと思っていたわたしの話が繋がってきたのには、心底驚いた

両氏が語る共感 (empathy) の重要性

診療にはもちろんのこと、植物状態からの帰還にも驚きの力を発揮するという

そんなことなど頭になかったわたしの話の中に、そこに繋がるポイントがあることに気付く

それは佐伯氏の語るネガティブ・ケイパビリティ (negative capability) へとも繋がるものであった

それから 「detachment から personal participation へ」

これは日常だけではなく、これからの学問のあり方にも関わるのではないだろうか 

最後に郷田棋士を引いてこう締めくくられた会長講演

仕事に出会ったことを感謝し、その仕事に全身全霊で打ち込み、その素晴らしさを知ってもらうことが使命

わたしがこのお話を引き受けた時に心の底にあった気持ちと重なるものを感じていた


話を始める前、学生時代に机を並べていたF氏を会場で見かける

長い時を経ての思いもかけない再会となった

 わたしの話を聴くためだけに来られたとのことで、恐縮すると同時にありがたく感じる


会終了後、同じく教育講演をされた若き日から哲学に打ち込んでこられたという西川氏、さらに今福氏を加えて一日を振り返る

 その時やっと、今回の訪日の肩の荷が下りたように感じた

 hectic と形容するしかない一週間であった


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今日の会場でのこと、予期せぬ出会いがあった

昨日の講演で、医学概論を始められた澤瀉久敬氏(1904-1995)の言葉について触れた

最後の最後に入れたスライドだった

その名前を見て昔の記憶が蘇ってきたとのことで、大阪でお仕事をされている方からお声を掛けていただいた

お父上が澤瀉氏のお弟子さんに当たり、子供の頃、澤瀉氏からの電話を受けたことも思い出されたようである

やはり、この世界、何が起こるかわからない




vendredi 14 septembre 2012

感染症研究所でのお話を終える


昨日は国立感染症研究所へお話をするために出かけた

アメリカ時代からの友人であるK氏、学会でわたしの話を聴き興味を持たれたというオーガナイザーのA氏のお誘いで

現場の科学者を知を愛する語りである哲学へお誘いするためもあり、お引き受けした

国の研究所なので、国の医療行政に寄与する仕事でなければ受け入れられない状況とのこと

目的が決まった研究、さらに業務も加わる

わたしの研究スタイルとは相容れないものがあり、耐えられそうにない

研究そのもののあり方について、立ち止まって考える人間が出てきてもよさそうなのだが、、、


その状況はある程度予想できたので、ヨハネス・ケプラー (1571-1630) の考えについても触れることにしていた

彼は科学を創造された完璧な世界について瞑想し、自らの精神を高めるための手段と見ていた 

 物を中心に置く考えから離れ、本質的な問いを考えるための道であるとも見ていた

 経済的な価値ではなく、音楽や絵画と同様の美的価値の追求こそ科学であると考えていた

つまり、突き放した客観的態度で臨むのではなく、精神を含めた全身が関わるような営みとして科学

心身分離の激しくなっている21世紀ではなかなか受け入れられなくなっているのだろうか

今の状況について一歩引いて考えることはせず、流れに身を任せているだけになっているのだろうか


そういう環境なのでK氏はどの程度の参加者がいるのか心配されていたようだが、ご本人の予想は超えていたとのこと

この日は村山庁舎ハンセン病研究センターとの三元中継を予定していたようだが、都合で村山庁舎との二元中継となった

それにしても、このような話に興味を持たれる方が多いということに驚かされる

その期待に応えることができたのかは、いつものように心許ない

話の後のディスカッションでもたくさんの質問が出てきて、こちらの方が刺激を受けた

 このような活動をしていると、科学と社会との接点で仕事をされている方とのお話も抵抗がなくなる

と同時に、お互いの間に引力が働くように感じる

いつのことになるのかわからないが、日本でそのような方向に歩み出すことはあるのだろうか


会場では思わぬ方々と顔を合わせることになった

研究領域が一緒だったO氏とM氏、昔の研究所、研究室で一緒だったダブルW氏など

日本に住んでいれば驚くことなどないはずなのだが、遠くにいてそのあたりの繋がりが飛んでしまったようだ


夜はK氏、A氏、M氏の他、部長をされているK氏、退官後広報を担当されているF氏の皆様が加わり、夕食を共した

話題は研究内容そのものではなく、研究体制の問題、科学論、文化論、そして現世のお話が出たように記憶している

最後に残るのは、そちらの問題になるのだろうか

大いに楽しませていただいた

皆様に感謝したい



jeudi 13 septembre 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試み、無事終る


今週の11日(火)と12日(水)、第3回目になる 「科学から人間を考える」 試みを東京で行った。

お忙しい中、参加された皆様に感謝いたします。



今回のテーマは 「正常と病理」。

どんな人間にとっても身近な問題になり得るので重いテーマではあったが、興味深いディスカッションが展開した。

講師の話が少し長くなったため、正規のディスカッションがやや不足した印象もあった。

懇親会でその不足を補っていただいたことを願っている。

第2回に初めて参加された方は約半数、今回は約40%が初めての方であった。

まだ3回目でもあり、ダイナミックに動いているということだろうか。

これからの展開を注視したい。

なお、次回は11月29日(木)、30日(金)を予定しております。

テーマは 「脳と心、あるいは意識を考える」 と致しました。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。 



初日の参加者


 第2日の参加者


ご参加、並びに貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。



lundi 10 septembre 2012

毎年恒例のディネ

中田、渡邊、嶋津、本郷の各氏


毎年、わたしの帰国に合わせて、以前勤めていた研究所の方々とディネを共にすることになっている

昨日、その会があった

時の経つのは速いもので、すでに5回目を迎えた

連絡とセットアップの労は渡邊氏に取っていただいている

 いつも甘えっぱなしである

 今年はお一人が欠けることになり、少し寂しい会になった

来年も顔を合わせることができればと思っている




samedi 8 septembre 2012

来週の 「科学から人間を考える」 試みの概略

Farm (1999)


来週の11日(火)・12日(水)と 「科学から人間を考える」 試みを行うことになっています

今回は 「正常と病理」 をテーマとして、生きることと不可分な健康と病気の問題を考えることにしました

最初に30分程度講師が話した後、意見交換するという形式で行います

そこで話すことは、今のところ次のようなことを考えています

病気というものがどう捉えられてきたのか、正常、病理、健康、病気とは一体どういう状態なのか、

病気を経験すること、あるいは病気が治るとはどういうことなのか

これらの問題について、主にフランスの哲学者ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)を軸に考える予定です

この哲学者は、わたしが「正常と病理」という問題に出会う切っ掛けになった方でもあります
そして、この世界からなくなりそうもない病気はわれわれの生にとってどのような意味を持つのか
そこまで考えることができれば、と思っています
よろしくお願いいたします

jeudi 6 septembre 2012

以前にも増して湿気を感じる


モンスーン地帯の一角にやってきた

今回は暑さよりもその湿気に辟易する

黙っていても汗が噴き出すというこの感じ、今までにはなかったように思うが、、

乾燥した国に長くなっていることを改めて感じる

この湿気の中、理性的に考えましょう、などという気分はなくなる




lundi 3 septembre 2012

ジョディー・フォスターさんのフランス語




彼女がフランス語をこれほど話すとは知らなかった

母国語もキレが良いので、言語感覚は優れているとは思っていたが、、、

アメリカ人のアクセントがないだけではなく、自然だ


若い時にフランス語の環境で学んでいたとのことで納得

これくらいにできるとよいのだが、、、とも思ったが、これは手の届かない高みだろう

「この道より 我を生かす道なし この道を行く」 しかなさそうだ





samedi 1 septembre 2012

秋風の吹くパリの空 満月


先ほど、夕涼みにバルコンに出た

今夜はきれいな満月だ

写真に撮ると不思議な姿が現れた

寒いくらいの風が吹いている

今ラジオからはサミュエル・バーバーの『弦楽のためのアダージョ』が流れ始めた

パリは物思う季節の始まりか 

まだ猛暑だという日本にこれから向かうのかと思うと、少々気が重い

それに、まだまだ絞り出さなければならないプロセスが残っている

いつものことながら、蓋を開けるまでわからない