dimanche 3 mars 2013

ベルグソンさんによる師フェリックス・ラヴェソンの思想と人生


先週はほとんど曇り

今日は1週間ぶりの快晴である

朝、寒いバルコンに出て、昨夜手にしたベルグソンの『思想と動くもの』(河野与一訳)を読む

以前に読んで、哲学のやり方にいくつかの道があることに気付く一つの契機になった本でもある


その中の 「ラヴェソンの業績と生涯」 というエッセイがあり、省察を促されるところがいくつかあった

Félix Ravaisson (1813–1900)

このフェリックス・ラヴェソンという方、ベルグソンの分析によれば、自ら論文を書くという気質の持ち主ではなかった

つまり、外部からの強制で書かなければならない状況にならなければ書かなかったのである

最初は学士院が出したアリストテレスの『形而上学』に関する競争論文

その次は学位取得のための論文であった

その後も、依頼がなければ書かなかっただろうものばかりだという
 

この気質、小林秀雄(902-1983)が見た正宗白鳥(1879-1962)のそれと同じである

白鳥は文学なんかやってもしょうがないと考えていた

日課のようにコツコツ書くことも荷風のように楽しんで書いたこともない

書くのは懸賞に出すなど、書かなくちゃという時だけだった

人の批評も全く気にならず、読みたい人は読めばよいと考えていたという

 愛読者も持たず、長い間よく作家を続けられたものだと小林は『大作家論』の中で頭をひねっている


形而上学の目的について、このように書かれている

「個別的な実在の一つひとつにその固有な色合いを与えながら、

そこを通してこれを普遍的な光に結びつけている特殊な光線を、

個別的な実在のうちでふたたび捉え、

それらが発する光の光源までたどることである」


物質的な機構にしか目が行かなかった自然哲学者

あらゆる事象を普遍的な型に入れようとしたプラトン

この流れとは違い、精神の直観により個物の奥にある個物を生かしている特徴的な思想を求めたアリストテレス

ラヴェソンさんはアリストテレスの哲学に気高いものを見ていたようである


ラヴェソンさんはまた、旅行、会話、社交を好んだという

当代一級の人たちと交わり、それが魂全体に浸透し、自分というものの発見がさらに深まった

彼が愛着を持っていたのは純粋な思想で、思想のために思想とともに生きた

彼が自らを確立するに至るには、人との接触が重要であったとベルグソンさんは推測している

それまで作品の外にあった著書がある時期から中に入ってくるのを指摘している

その時、著者自身の内的生活が十分でないために作品に生命を吹き込むことができなかった状態から脱却したのである


このことを自らに引き付けて振り返れば、程度の違いは否めないが、同質のものを感じることができる

今の自分はこれまでの自分とあまり変わらないと思いがちだ

しかし、こちらに来ることなく日本に留まっていたとしたらどうなっていたのか

それを想像することが重要である

こちらの大学でその道の専門家から講義を受け、時には直接話をする中で、何かを感じていたはずである

そこでは、これまでとは何かが違うと感じ、そのことでこの精神が開かれて行ったはずである

 特に、最初の2年間の衝撃は想像を超えるものだったが、生の記憶は薄らいでいる

以前から今の状態だと思いがちなのである

しかし、当時のものを読み返せばそれが誤りであることがすぐわかる

その後も人に会う度に化学変化が起こっていたはずである

先日のランデブーでも、それがなかった時の状態を思い描いてこの事実を再確認していた


何気なく遣り過ごしていると、そのことを簡単に忘れる

起こったことを観察し、記録し、明確な形として認識できるようにしておかなければ、そのことが意識できない

比較できず、拡がり深まらないのだ

この営み自体が哲学的と言えるかもしれない



ところで、バルコンで読むと、どうしてこうも感受性が上がり、思索が拡がるのだろうか
 
暫定的な解は以前に出してみたが、未だ確実なものは見つかっていない





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