samedi 21 septembre 2013

西研教授の 「現象学的明証性とエビデンス」 から科学を考え直す


今回の日本滞在では、東京医科大学のファカルティ・ディベロプメントでお話しする機会があった

その会場には哲学科の西研教授がおられ、多くの示唆に富むコメントをいただいた

講演終了後に届いたメールの中で、エビデンスと現象学についての対談を紹介された

ご本人のHPの冒頭から数行下のところにある 「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」 である

 現象学と言えば、もう7年前になるが一つの出来事があった

イメージ、時間、現象学 L'IMAGE, LE TEMPS, LA PHENOMENOLOGIE (2006-04-28)

それ以来、いつかはと思いながらも未だ手付かずの現象学

 今回の滞在では時間がとれなかったので、パリに落ち着いた今朝、目を通してみた


科学的なエビデンスとの比較で、哲学的エビデンスについて現象学での可能性を探っている

現象学におけるエビデンスは、「明証性」 と訳されている

科学におけるエビデンスは、知覚事実とその数学的処理により得られるとしている

それに対して、現象学における 「明証性」 はどのように確保されるのだろうか

フッサールによれば、わたしにとっては疑うことができない 「事柄それ自身の現前」 として捉えられる

そこにはまだ、誰とでも共有できる性質が備わっていない


フッサールは 『デカルト的省察』 で、知覚事実とより厳密なエビデンスになる反省による内在的体験を分けているという

その上で、知覚事実については疑えるが、それについて反省していることは疑えないと考えた

まさに、デカルトの Je pense donc je suis である

対象は多様でも、そこに向かう態度には誰にでも共通する構図があり、フッサールはそれを本質と呼んだ

 さらに、その本質を引き出すことを 「本質観取」 と呼び、内的世界のあり方の構造を捉えようとしたという

西教授は反省的明証性を意味する "reflexive evidence" という言葉を当てている



 これは意識に存在するとされる二つの段階と対応しているように見える

すなわち、一つは外界の受容で、もう一つがその一段上にある外界の受容についての省察である

 第二段階に行かなければ、意識があることにはならず、目覚めていない状態と何ら変わらない

ヘーゲルが言う 「思惟」 とそれは対応するものだろう

彼は次のように言っている

 「哲学の目的は真理である。・・・

真理は直接的な知覚や直観においては認識されない。

それは外面的感性的直観においても、また知的直観においても同様である。

ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」



 20世紀に入り、人文系の科学も自然科学的であろうとする流れが現れた

 この対談では心理学からの例が引かれている

 主観的な要素を極力排除しようとして、数学的、統計学的処理へと向かう流れである

 内的世界を完全に無視する行動主義などは、その代表例になるのだろうか

 確かに、科学の中にいる時には、そのような切り捨てが小気味よく見えることがある

 科学はそうでなければならないと考えがちになる

 そして、それが科学者に熱狂をもって迎えられ、勢いある流れとなる

 しかし、時が経ち、冷静が戻って来ると、多くのものが見落とされていたことに気付くのである

 同様のことは、他の分野でも起こっているだろう


今回、現象学におけるエビデンスの求め方を知ることができた

 それは誰もが反省することにより共通の理解に達することができる基盤のようなものと言えるだろう

 わたし自身は、科学におけるエビデンスについても同様の省察が必要であると考えている

 科学においてエビデンスとなる事実をそのままにしておいたのでは、その意味が見えてこないからだ

 そのため、それぞれのエビデンスを関連付け、謂わば 「現象学的」 エビデンスへと高める必要があると考えている

 わたしが提唱している 「科学の形而上学化」 ということは、まさにこの営みに当たるだろう

 「21 世紀の科学,あるいは新しい 『知のエティック』」 医学のあゆみ(2013.2.9) 244: 572-576, 2013

 そして、わたしが帰国の度に開いているサイファイ・カフェSHEでやろうとしていることもそのための一つの試みと言える



今回、このような省察に導いてくれた対談を紹介していただいた西教授に感謝いたします





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