lundi 23 février 2015

その 「出来事」 はクラススイッチであった


半年前、銀行の担当者が辞めるとの挨拶メールが届いた

そして先日、新任の方から相談があるとの電話が入り、本日のランデブーとなった

前任者はどうしたのか訊いてみたところ、アブダビに行ったとのこと

元気のよい女性だったが、なぜか嬉しくなる

本日は1時間ほど話を聞き、「こと」を終えた

新しい方も元気がよく、親身になってくれているようで気持ちが良い


さて、一つの 「出来事」 に遭遇した時、その意味を考える

あるいは、そこに意味を与えると言った方が分かりやすいかもしれない

これは長い間にわたしの習い性になった運動だ

その背後には、この世界の出来事はすべて決められているという認識がどこかにあるからだ

過去についての恨み言で留まったり、その予防策を考えるというような方向ではない

起こったことはすべて最高のことだと認めるものでもない 

最高であろうが最低であろうが、そのことは決まっていたのだから仕方がない

その前には戻れないからである

その上で、なぜそう決まっていたのかを考える方が生産的だろうと考えるのである

そこに新しい道を見い出す可能性があり、それしかないからだ

「出来事」 は本来的に無機質なもので、そのままでは何の性格もない

そこにどのような意味を与えるのかにより性格が現れる

それが将来を決めることになる


正月の「出来事」以降の内的変化が、より鮮明に見えるようになってきた

免疫を担う抗体には、定常部の特徴から IgM、IgG、IgA、IgD、IgE などのクラスがある

それぞれ分布や機能が異なっている

抗原に対する特異性(可変部の構造)は変わらないが、定常部が変わるという現象がある

クラス変換(クラススイッチ)と呼ばれる

 生体を最適状態にするため、適宜機能の異なるクラスに形を変える

 その時起こる抗体遺伝子の変化が、ここに図解されている

この図は IgM から IgG1 というサブクラスへの変換が描かれている

その時、IgM、IgD、IgG3 の遺伝子がリング状に切り取られ、IgG1と可変部遺伝子とが繋がる


正月の「出来事」では、ここ数年の記憶が失われた

その記憶が IgM、IgD、IgG3 に当たり、そこがループ状に切り取られる像と完全に重なったのである

つまり、クラススイッチを身を持って経験していたとも言える

抗体を見れば明らかなように、それは元からある材料を使った創造である

抗体に意識はないはずなので分からないだろうが、わたしは意識の変化に気付いた

ここ数年、学生としての生活は遠くに去り、やや弛んだ生活を送っていた

今回そこの部分が切り取られ、数年前の学生気分が残っていた状態と直に繋がることになった

その結果、少しだけ新鮮な気持ちで「こと」に当たることができそうな感覚が生まれている

それは、おそらく良いことではないのか

正月の「出来事」なしに、ここに辿り着くことはできたのだろうか

おそらく難しかったのではないだろうか

そして、クラススイッチのように、この「出来事」が創造へと導くのか

こればかりは、今は分からない





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