mardi 8 septembre 2015

ハッチンズ著 『偉大なる会話』 のこと、再び



こちらに来て1年目に日本に帰った折、学生時代の書棚からこの本を見つけた


大学に入った年に手に入れたもので、よく読まれた跡が残っていた

自由学芸と訳されていたリベラル・アーツという響きに心が躍ったのだろう

それ以来、この本のことは忘れ去られていた

しかし、身の回りから消えたように見えたこの経験はどこかに残っていたのかもしれない

この本に再会した時、実に懐かしい感情が蘇ってきた

いつものように、今こうしているのはあの経験が関係しているかもしれないという考えも浮かんだ

いつの時代でも哲学を専門とする人はマイノリティである、という言葉には真理 がありそうだ

哲学にはどこかとっつき難さがあり、秘密結社のように映る集団にも違和感がある

そして何よりも、それがなくても不自由なく生きていけるからである

一方、哲学や文学を含む自由学芸に触れると言った場合はどうだろうか

それほどの抵抗感は持たないのではないだろうか

ただ、その対象が古典ということになれば、話は少し違ってくるかもしれない

古典の場合、話し言葉で書かれた現代人の本とは違 い、理解するための時間が必要になる

そのため、忙しい現代人が面倒だと感じても何の不思議もない


この本を読んだ時に覚えたもう一つの抵抗感がある

それは、どこか上の方から「これは読まなければ駄目ですよ」と諭されているように感じたからである

「必読書100 冊」などと銘打たれると、それだけで読む気が失せるところがあったからである

これはすべての人の理由になっているとは思えない

しかし、上に挙げた理由とともに何らかの影響を及ぼしているのではないだろうか
 
いずれにせよ、古典との対話を薦めるハッチンズ博士の主張が広がっているようには見えない


その道になぜわ たしが入ることになったのか

それは、科学から離れることになったことと関係があるだろう

その時、リベラル・アーツという言葉が蘇ってきたのである

それまで意識には上らなかった普遍に対する熱のようなものがふつふつと湧いてきたのである

それは、古典の中にしかわたしが求めるものはないという確信に変容していった

ひょっとすると、このようなことは生まれて初めてのことだったかもしれない

そこから、欲することを欲することになり、そうなると止まるところを知らなくなる

それは嬉しい大転回であった

ほぼ半世紀を隔てた因果関係が見えたと言うつもりはない

ただ、こういう繋がりが見えてくるのは、実に味わい深いものがあるということは言えそうである






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