jeudi 31 décembre 2015

妙に落ち着いている大晦日



いろいろな出来事があった2015年が暮れようとしている

わずか数時間で新年を迎えるが、数時間で何かが変わるとは思えない

今年は久しぶりにパリで新年を迎えることになった

正月のブリュッセルでの出来事を思い出したわけではない

落ち着いて新たな仕事を始めたいという気分なのだろう

外に出向きたいというよりは、気持ちが内に向かうようになっている

これまでにも触れたとは思うが、この状態になるのに8年を要したことになる


今年最後のカフェの後、スーパーに入ってみた

これまでは入口で荷物検査をやっていたが、今日はそれがなくなっていた

 帰りのメトロでは、どの入り口を試してもチケットが入って行かない

暫くして、窓口の女性が明日の正午まで無料です、と教えてくれる


来年はどんな年になるのか

今年を振り返ってみても、全く想像できないことが分かる

今年の教訓から言えることは、すべてを受け入れて進むしかない、ということだろうか





mercredi 30 décembre 2015

今年最後のビブリオテークにて



今日は、今年最後のビブリオテークとなった

最初の数年は、このような閉じた場所で過ごす気分には全くならなかった

最初は観光客として、それから世界内存在として外を飛び歩きたい気分だったのだろう

それからかなり時間が経ってから、この広々として空間に身を置くことが稀ではなくなった

当時は、変われば変わるものだと思ったものである

ある意味、心地よさもあったのだろう

この空間の広さだけ自分の思考の空間も広がっているような錯覚を齎してくれたからだろうか

実にいろいろな思索が巡る場所となった

そして、苦しみの場所でもあった

これからも折に触れて、ここでの時間を欲することがあるのではないだろうか

そんな予感がしている





mardi 29 décembre 2015

次回のSHEとPAWLのご案内



長い間中断されていました会を、以下の要領で開催することに致しました

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


第1回サイファイ・カフェSHE札幌

2016年3月2日(水) 、18:30~20:30
科学にとっての哲学、哲学にとっての科学
札幌カフェ
案内ポスター


 第3回カフェフィロPAWL 

2016年3月8日(火) 、18:20~20:00
エピクテトスの人生と哲学
恵比寿カルフール
案内ポスター

第9回サイファイ・カフェSHE
2016年3月10日(木)、11日(金) 、18:20~20:00
科学と宗教:オーギュスト・コントの場合
 恵比寿カルフール
案内ポスター


皆様のご理解とご支援をよろしくお願いいたします




lundi 28 décembre 2015

人生のプログラムの設計者



今日は人生を振り返ることになった

以前、人生の時間についてのエッセイを書いたことがある

今の状況では大学、大学院まで行けば、教育に20年ほど費やす

それから60歳定年とすれば、35年ほど働くことになる

平均寿命が80歳だとすれば、それから20年ほどの時間が残っている

 その時間をどう過ごすのかが、問題になり始めている

これからさらに寿命が延びるとすれば、その時間の過ごし方については今以上に問題になるだろう


わたしは想定する必要がないだろうが、仮に寿命が120歳まで延びたとする

そして、これも仮に70歳まで仕事をすることになったとする

その場合、半世紀の時間が残されることになる

その時間をどう過ごすのかという問題である

仕事人間にとっては、この時間が視野に入っていないことが多い

 世界的に見ても、人生の時間割に関する哲学は弱いようである


今日なぜこの問題が浮かんできたのか

それは、期せずして第二の教育期間になったほぼ10年に区切りを付ける時が来ているからだろう 

妙に真面目になっているようである

大袈裟に言えば、教育を受けた者の責任のようなものをどこかに感じ始めているからではないか

もし教育の区切りを付けずにいたとしたならば、このような問いが浮かんできたかどうか分からない

今よりはずっと自由な感覚で居られた可能性もある

今年に入ってから、何かに縛られるような感覚が付いて回っているのである


平均寿命は分かっても、自分の寿命は分からない

しかし、ここでは仮に120歳までの時間が与えられているとする

その残りの時間をどう使うのかについて考えてみたい

いろいろなオプションが浮かんでくる


一つは、最初のサイクルと同じように、教育の後の時間を社会的な活動に使ってみること

今のところ、最初のサイクルと同じような活動の幅は社会に用意されていない

人それぞれが活動の様態を考える必要があるだろう

 活動の期間も人それぞれだろうが、これを続けるとすれば半世紀にもなる

学びに興味のある人は、適当なところで第三の教育に向かっても良いだろう

 つまり、教育と社会的活動、あるいは静的生活と動的生活を周期的に繰り返すのである

周期の長さにより、多様なライフスタイルが生まれるだろう


第二には、仕事や社会活動の後、静的な生活に入ることが考えられる

この時間の使い方も人それぞれになるだろう

 ただ、半世紀を退屈せずに過ごすには、それ相当の工夫が求められるだろう

第三、第四の可能性もあり得るだろう

しかし、社会に定型を提供するだけの哲学がない現状では、次のようなことしか言えないだろう

人生は、仕事が終わってからも続く

死ぬまで続く

死ぬまでの人生のプログラムをどうするのか

それは、結局のところ、それぞれの創造性に委ねられているのではないか

つまり、それぞれが自らの哲学を生み出す必要があるということである






dimanche 27 décembre 2015

7年前からの省察



このところ、振り返るという作業が自然に行われている

今、7年前のブログを読み返していた

そこから二つほど


ブログを書くという作業では、対象を目の前に出し、それを観察し、それについて考える

その点では、わたしの考える哲学的な要素がある

もう10年ほど続けてきたことになる

その間に感じていることは、生きることを後押ししてくれていたのではないかということだ

これは先日触れたこととも関係がある

つまり、ここでの営みが生きることに直接関わっていたということである

哲学的営みが、より善く生きる上で必須であることを示す証左になるだろう


 もう一つ

丁度マスターの2年目に入った今頃、ある壁が消えて行ったと記されている

それは、こちらに来てから付き纏っていたクールの中でフランス語を話すことの恥ずかしさである

 しかし、ある日突然、その抵抗感が消えていたとある

今となっては思い出さないが、おそらくこのような大小の壁が何度も崩れていたのではないだろうか

つい最近の経験で言えば、スートゥナンスがそれだろう

この場でも紹介したが、一年前にスートゥナンスに参加している

しかし、その時はその場に自分が立っている姿を想像さえできなかった

そして一年後、抵抗感なく当事者になっていた

大きな壁が崩れていたのだろう

少し離れて見れば、それは信じられないことである


いずれにしても、このような状態になるのには8年の時が必要だったということになる 

その時間が長かったのか短かったのかは分からない

今はただ、そうであったとしか言いようがない

こちらに来た時点から今を眺めれば、想像もできなかった世界が広がっているのだろう

今の時点から眺めれば、それは現実にしか過ぎないのだが、、、





samedi 26 décembre 2015

悲劇から奇跡へ



今年も残すところ僅かになった

今年は特に、知らない間に時が過ぎているという感覚が強かった

未だに年の瀬を迎えていることが信じられない

スートゥナンスが3週間前だったこともである


思い返せば、今年は悲劇的な出来事から始まった

それにも拘わらずなかなかやる気にならず、それは最後まで続いた

大きな試練ではあったが、今では奇跡としか思えないような経過で終えることができた

真面目に見直せば、それがどうして可能だったのか分からないの一語である


この一年の歩みは、いろいろなものを齎してくれた

その一つは先日も触れたが、自分のやり方の癖をやっと理解できたということである

そういうことになっている、あるいはそれ以外にはないのだと理解したということである

その効果だと思うが、以来それほど苦しまずに「こと」に当たれるようになってきたようである

理性によって感情をコントロールできるということなのだろうか

これは、これからにとって大きな発見であった






vendredi 25 décembre 2015

外国語の恐ろしい力



こちらに来て長い間、最初のブログ「フランスに揺られながら」は記憶の彼方であった

それが蘇って来たのはここ1-2年のことである

こちらでの動きが緩やかになり、振り返る余裕が出て来たということだろう

最初のブログをやっていた当時から不思議に思っていたことを改めて書き留めておきたい

それは、フランス語を日本語に移し替えている時に体に活が入るような感じを覚えたことである

 訳しながら心の中で繰り返したり、実際に声に出してみる

その時、その人間の声が、精がこちらに乗り移るように感じたのである

フランス語から姿を変えた日本語がこのわたしを目覚めさせ、立たせ、前に進めさせたとも言える


何故そうなるのか

それは分からない

しかし、その効果は慣性をもってこちらに来てからも現れていたのではないだろうか

もしフランス語をやっていなければ、これまでの時間はどんなものになっていたのか

想像するだに恐ろしいことである


フランス語の効果はそれだけではなかった

実は、こちらに来る何年か前から、英語の世界に飽きを感じ始めていた

英語の本を読むことに意欲が湧かなくなっていたのである

こちらに来ておそらく4-5年はフランス語の中に浸っていた

そこから徐々に出てくる過程で、英語の世界がこれまでとは違って見えてきたのである

以前に感じていた英語に対する倦怠感は消え失せ、新たな興味が湧きつつある

これも外国語の恐ろしい力と言えそうである

フランスに来たのは、実は英語に対する愛を再び呼び覚ますためだったのではないか

そんな思いも湧いてくる





jeudi 24 décembre 2015

リンカーン・センターからの贈り物





ニューヨークのリンカーン・センターから上質の贈り物が届いた












mercredi 23 décembre 2015

最良だった学生という選択



今朝、用事があり町に出る

担当者が新しく若い人になり、話すスピードが速い

聞いているだけだときびきびしていて気持ちよい

しかし、中身が分からないと後で大変なことになる

半分諦めて、何とか終わらせることができた

それから少し歩き回ってから帰って来た


この間、なぜこれほど長きに亘ってこちらにいることができたのかを考えていた

少し引いてみれば、異常にも見えかねない隠遁者のような生活だったからである

こちらに来る前の思いは、自分の時間のすべてを使って考えてみたいというものだった 

学生になるというオプションは考えてもいなかった

しかし、長期滞在にはそれ以外に方法がないと判断し、このようなことになった

もし学生以外でも長期滞在が可能だったとしたならば、どうだったろうか

その場合、これほど長く滞在することになっただろうか

学生という立場にあったからこそ、それができたのではないか

 いつか書かなければならない論文を待つ、という精神状態に置かれていたからである

実際に書く書かないは別にして

そして、その縛りを感じていたからこそ、それまで自由に動き回ることができたのではないか

望んでなったわけではなかったが、結果的には最良の選択をしたように思えてくる 

それを選択と言えるかどうかは、分からないのだが・・・





samedi 19 décembre 2015

ネガティブ・ケイパビリティ再び



今年を振り返り、先日のネガティブ・ケイパビリティに関連して浮かんできた考えがある

そう意識していたとは思えないが、これまでのやり方を見ると一つの特徴がある

大袈裟に言うと、締切りのぎりぎりまでなかなかやる気にならない

その時まで形にするのを待つようなところがある

対象についての自らの見方を最後まで決めず、熟するのを待っているかのようである

こういうものにしようと作るのではなく、対象が自ら形を作るまで待つという感じだろうか

自らの意志ではなく、対象の意志が生まれるまで待つと言い換えることができるかもしれない

これまでこのメカニズムがはっきりと見えていなかったため、常に苦しむことになった

こういうものだと理解してしまうと、あとはネガティブ・ケイパビリティにお願いすることになる

苦しみがなくなることはないだろうが、少しは軽減しそうな予感がしている






vendredi 18 décembre 2015

永遠の学徒



本日、これが本当の最後になるはずの手続きをするために大学に行く

皆さん、ヴァカンス前のためか、いつになく明るく見えた

秘書のSさんからは、大変なスートゥナンスも終わった今、ゆっくり休んでくださいと労われた

自分の中では新たな始まりにしか過ぎないという意識があるためか、いつもと特に変わらない

スートゥナンスでそのような話をした時、審査委員長から次の言葉が返って来たことを思い出した

「あなたは永遠の学徒ですね」

わたしとしては、有難い言葉として受け取った

これからもどこにいようが、その気持ちに変わりがないことを願いたいものである


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dimanche 20 décembre 2015


「永遠の学徒」 という響きには記憶を刺激するものがあると思い、古いブログを調べてみた

やはり初めてではなかった

永遠の学生 "Tu es un éternel étudiant !" (2009-10-09) 

一学徒として (2008-02-07)

このことは、自分でも当初から感じていたということが分かった

もう一つの総括の言葉となりそうである




 

mardi 15 décembre 2015

なぜ哲学はマイノリティなのか、あるいは哲学と宗教



先日、「こと」の終わりを迎え、これまで不確実、不確定の中に居続けたのではないかと感じた


ネガティブ・ケイパビリティにも通じるこの能力は、何事をするのにも重要になるだろう

中でも答えの出ない問いに向き合うとも言われる哲学においては、特に重要になるように見える

 そのことを体得したのも今回の滞在の一つの収穫になるのだろうか


そこで気付いたのは、宗教との関連、より正確には違いである 

宗教の場合には、何かを求めるよりは先に信が来ると聞いている

信が先にあれば、ネガティブ・ケイパビリティなど必要なくなるのではないか

不確実性の中で苦しむことから救うのが宗教であるとするならば


人類のほとんどが何らかの宗教に関わっていると言われている

この事実は、この世界そのものが苦しみに満ちていることを示しているのだろう

それでなくても不確実な生の中にいる人間が、更なる不確実性を求めるだろうか

なぜ哲学をやる人がいつの時代も圧倒的な少数派に属しているのか

その理由はこんなところにあるのかもしれない





lundi 14 décembre 2015

スートゥナンスの総括



本日、事務的な話のため指導教授のところに顔を出す

スートゥナンスから丁度1週間ということで、当然のことながらその話が出た

かなりレベルの高い質問がいずれの審査員からも出ていて、良いスートゥナンスだったとの総括

 わたしも同様の印象を持っていたが、これまでいろいろと見てきた方の評価だったので納得した


思い返せば、ドクターの始まりには運命的なものがあった

マスターの後、1年ほど休むつもりだったが、ドラマチックな展開でドクターに進むことになった

不思議な出会い、そして再び学生に (2009-12-04)

もう6年も前のことになる

その時に指導教授がどう言って説得したのかも笑い話として出ていた

在り来たりな言い方だが、この人生が筋書きのないドラマであることがよく分かる


 このところ庵暮らしを自認してやってきたが、書いているものを読めばわかるのだろう

何人かの審査員からそのことが指摘されていたことを思い出す

今日も、そろそろ庵から出て人と交わる時期に来ているのではないかというような話が出ていた

 これからどうするのか、という質問も出ていた

 現在、審査委員長が皆さんの意見を集めて最終報告書を作っているところだという

それが出たところで、ドクターは一応の修了となるようだ






dimanche 13 décembre 2015

パリから見えるこの世界 (35) 国立自然史博物館で、「生命を定義する」 ということを考える



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』を紹介いたします

医学のあゆみ (2014.12.13) 251 (11): 1099-1103, 2014

つい最近書いたばかりかと思っていましたが、もう1年経過していたとは時の流れが信じらせません

ニュートンの言うようには時は流れておらず、すべてがそこら一面に散らばっているようです


 ご一読、ご批判をいただければ幸いです






samedi 12 décembre 2015

再び海の底へ


今週初めに「こと」が終わったばかりなのに、もう遥か彼方の出来事に感じる

海の底に沈んでいた身が海面に出たのはほんの一瞬で、また海の底に沈みつつあるように見える

元々の生活から見ると、異質な出来事を経験していたとも言えるだろう

週が明けるとこの感覚に変化が出てくるのだろうか






jeudi 10 décembre 2015

区切りの後で見えてくる隙間



今朝、用事があり町中に出る

用事はすんなり終り、カフェに落ち着く

今年の初めの出来事を当時の記録から振り返ってみる

今の時点で浮かんでくる情景とは違い、生々しくも切実な感情が表れている

あれから11か月

このような状態になるとは、当時のわたしには想像さえできていなかった

それは当然のことだろう

ただ、今ではあの出来事はなくてはならないものとして捉えられるようになっている

決定論者としては当たり前なのだが、その認識は手品師による巧妙なツイストに見える


ここ数日よく訊かれるのは、これからどうするの?ということだ

 具体的には未定だが、今回一つの区切りを付けたことで見えてきた埋めるべき隙間がある

それを埋める作業をやってみたいということになるだろうか

完成することなどないのが人生だとすれば、適宜区切りを付けるのはそれなりの智慧かもしれない

今回のが一つの区切りだとすれば、次の区切りはいつ来るのだろうか





mardi 8 décembre 2015

一夜明け



すべてが終わって、と言いたいところだが、いつもと何も変わらない朝を迎えている

一夜明け、気持ちの僅かな変化に気が付いた

外から見ると、わたしは所謂科学哲学の専攻ということになるのだろう

しかし、この領域とは関係なく、庵に籠り、独自に(独善的にもなり得るが)考えてきたように見える

専門に入ることに抵抗を覚え、広く考えるためにこちらに来たからである

 科学哲学が対象としている問題に大きな興味を覚えることもなかった

わたしの興味は専門の中にはなく、科学と哲学の境界からの視点にあるからだろう

その意味では、遠くから観察するという姿勢を採って来たことになる

これは最初の学生時代ではあり得なかったことである

ただ、今回一段落を迎え、その姿勢に微妙な変化が現れているのを感じている

それはこんな感じだろうか

科学哲学とはどのような領域なのか、その中に入って見直す時間を取ってもよいのではないか

その中にいる時には抵抗があり、そこを離れて改めて観直そうという気になる

不思議なものである





lundi 7 décembre 2015

スートゥナンス終わる

審査員の諸先生
(右から) Prof. Geoff Butcher (UK), Prof. Anne Marie Moulin, Prof. Alain Leplège, 
Prof. Anne Fagot-Largeault, Dr. Thomas Pradeu


本日、朝からスートゥナンスが行われた

いつものようにぎりぎりまで準備に追われた

わたしの発表は30分程度

その後に審査員との質疑応答が一人20-30分ほど続いた

これまでに見たものよりは物理(ニュートン)的な時間は短かった

これは審査員の数による違いではないだろうか

いずれにせよ、かなり厳しい質問が次々に出され、こちらは大いに勉強になった

学問の規範だけを基にした純粋に批判的な言葉は、普通の会話では聞かれないからだ

このような中身が密に詰まった時間は久しぶりで、それを経験できたという幸せを感じている

いつもの後付けで言えば、この時間を味わうためにわざわざ論文を書いたのでは、とも思える

終わった後に解放感が訪れるのかと思ったが、テーズの時と同じで全くなかった

これからの課題が山積という状態になったと感じているためだろうか

いずれにしてもこれからいろいろな意味を持ってくるだろう一日が終わろうとしている


 ところで、今回も出来事があった

朝、pot のための飲み物のビンを持って校舎に入ろうとすると、ビンの持ち込みは禁止だという

預かってくれないかと言っても何を言っても駄目

最後には、外にあるごみ箱に捨てるしかないと判断して会場に向かった

そのことを施設のパソコンなどを管理するサービス部に言うと、先週は何の問題もなかったという

 再び警備の人に食い下がったが、やはり駄目

そうこうしていると、サービスの屈強の男性が現れ、飲み物を一緒に取り返そうという

そして彼が警備の人に声を掛けると、先ほどの態度が一変、持ち込みOKという

かなりいい加減である

幸い、タバコの吸い殻とコーヒーの飲み残しに塗れたボトルをすべて回収することができた

 お蔭様で、すっきりした気分で「こと」に向かうことができた


振り返れば、先々週と先週会場を見に来た

その時に、彼とざっくばらんに話していたことがこうなった大きな要因ではないかと想像している

やはりヒューマンコンタクトは重要だと庵から出て改めて感じている

残ったものはすべて彼のセクションで処分してもらうことにしたのは、言うまでもない




dimanche 6 décembre 2015

スートゥナンス前日、ネガティブ・ケイパビリティが浮かぶ




今日は終日うす曇り

明日にスートゥナンスを控え、実に不思議な感じである

このような状況に自分が置かれていることが、信じられないとも言える

何でまた、という気分でもある

これまで日本にいたとしたならば、考えられないことだろう

昔のわたしが日本から見ているとしたならば、どんな感想を抱くだろうか

興味が湧いてくる


今回も最後まで準備に追われそうである

最後の最後にならないと纏まりそうにない

これは何のことはない、いつも不確実、未確定な状況に居続けるということである

意識しているわけではなく怠惰の成せる業だが、その状態に耐えざるを得なくなっている

これこそ以前に触れたネガティブ・ ケイパビリティが試されていたのではないか

ひょっとすると、特に今年一年、この能力を鍛えていたことになるのだろうか






samedi 5 décembre 2015

今朝のパリの空



久しぶりに朝の空を味わう

冬の空は突き抜けるようで素晴らしい

その中を静かに進む飛行機雲は今日も健在だ

どんな一日になるだろうか











jeudi 3 décembre 2015

スートゥナンスの許可が下りる

(Sebastião Salgado, 1944- )


本日、スートゥナンスを行ってもよろしいとの通知 convocation が届いた

このようなシステムになっていたのだということを初めて知る

まさに、コツが分かった時にはすべて終わっている、である

今回もそれを痛感した

最後だけは、文句を言わないで静かに準備したいものである





mercredi 2 décembre 2015

「水木しげるという人 QUI EST SHIGERU MIZUKI ?」 再掲

(Sebastião Salgado, 1944- )


漫画家の水木しげる氏が11月30日、93歳で亡くなったことを知る

作品には触れたことはないが、最初のブログに記事を書いていたことを思い出す


当時の記事分類は、「自由人」 となっている

追悼の意味を込めて、以下に再掲したい


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週末の夜中にテレビをつけると、NHK アーカイブスが流れていた。その日は漫画家の水木しげるが取り上げられていた。彼の作品を読んだことはないし、ご本人についても何も知らない。しかし、話を聞いていると面白そうな人なので、途中からだったがついつい最後まで見てしまった。彼が60代中ごろの映像とのことなので、もう20年も前のことにな る。

水木しげる: 大正11年 (1922年) 3月8日 -

第二次大戦中、南の戦地でマラリアに罹るが、隊を抜け出しては土地の人と付き合っていた。彼らの生活が 「木の生活?」 (自然とともにあるということか) で、人間が大らかで言葉は分からないものの気持ちのよい付き合いであったという。言葉だけではないコミュニケーションができそうな人である。むしろ言葉でない方が人間の中身が出るような人とお見受けした。いずれにせよ、土地の人との付き合いのお陰で病気もよくなり、引き上げる時にはそこに留まりたいと本気で思い上官に申し出たが諭されて日本に帰ってきたという。彼の心の底には今でも、その生活が息づいているように見えた。

日本に帰ってからの生活は苦しく、貸し本作家として6-7年を過ごすが、この時の収入は微々たるもので食うや食わずの生活が続いたという。本当に苦しかったようだが、彼の顔にはその間に刻まれたはずの証拠が全く見て取れなかった。日常の苦境をどこか別のものとして処理できる何かがあったとしか思えない。そのことにまず驚いた。根っからの楽天家で、マイペースで生きるのが自分に一番心地よい生き方とでも思っているかのようだ。南洋での生活が何かを与えたのか、あるいは現世にありながら別世界を見ることのできる視界の深さがあったのだろうか。その理由はわからないが、お顔が特に印象に残った。

もう一つ印象的だったのは、60になったら仕事をしないで、のんびりぼやーっとして生活するのが最高という考え方。仕事をしないということはすべてから解放されるということ、解放されながら生きる、そんないいことがどこにありますか、という調子である。最後まで見てしまったのは、おそらく彼の中に何か共通するものを見たように感じたからではないだろうか。

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mardi 1 décembre 2015

やっと事務手続き終了



 今年もいよいよ最後の月に入った

知らない間にここまで来てしまった、という感覚である

今日は大学に行き、学生としての最後の手続きを終えることができ、やっとすっきりした

残るは本人の問題だけになった


ついでに、スートゥナンス終了後のちょっとした懇親会(pot)の準備を考える

これはフランスの大学の伝統になっているので避けられないらしい

ということで、大学近くのブランジュリーに行ってみた

マネジャーが現れ、機関銃のようなフランス語で多様な出し物を説明してくれる

今日の写真の方である

しかし、残念ながらイメージが湧かない

当日のお楽しみということで、当てずっぼうで注文した

きびきびした対応で、気持ちよく店を出た


実はどこのお店に注文するのか、これまで迷っていた

先日、そう言えば・・・ということでこのお店のことを思い出したのだ

2007年春、これからを模索するためにパリを訪れた時に入ったお店である

以下の記事に使ったのが、その時の写真である

フランスからのメール (2007-05-27) 

まさに先日の製本所と同じで、8年の時を隔てて新しい意味が現れたことになる

どうということはないのだが、なぜかこちらの方も気持ちがすっきりする出来事であった